明石城訪問記【徳川のコネで作られた実は巨大な城】 [城-兵庫県]
ここのところ土塁&空堀、そして土塁&空堀とマニア以外は全く興味の沸かないお城紹介が続いていたので、今回はフンパツして重要文化財の建物があり、かつ、日本100名城の58番に認定されている「明石城」を紹介します!
明石駅に到着すると、明石城の「例の櫓」がもう見えています。
駅を出て信号を渡ればそこは明石城です。いや~近い。
大手門から三の丸に入城します。「例の櫓」の撮影スポットです。
それにしても三の丸はでかい、、右側に庭園のようなものがあります。
「武蔵の庭園」は明石に客分として招かれていた宮本武蔵が明石城内に作ったとされる庭園をこの位置に復元したもののようです。動画で入ってみましょう♪
「例の櫓」の一つ目、東側にある巽(たつみ)櫓の真下にやってきました。
それでは巽櫓をナメるように(?)見上げてみましょう。巽櫓は伏見城から移築されたと言われています。
なかなかの高石垣ですねー♪続いて「例の櫓」の二つ目、西側にある坤(ひつじさるやぐら)櫓の真下にやってきました。
こちらも同様にナメるように(??)見上げてみましょう。坤櫓は近くにあった船上城から移築されたと言われています。
本丸に到達です。二つの櫓の間は展望台のようになっていて、明石の町並みを一望できます。
動画でどうぞ(ちょっと夕方になっていますが、、)
真ん中に淡路島、左側には明石海峡大橋が見えます。海にも近くいい景色です♪
二つの櫓の間にある塀の狭間から明石駅を見ます。ちょっとゴルゴ13気分?
坤櫓のすぐ隣に天守台があります。が、天守閣はつくられませんでした。。
この本丸には天守閣は建てられなかったのですが、本丸の四隅に櫓が建てられて囲まれていました。残りの二つの櫓が乾櫓および艮櫓といわれています。艮櫓の跡地です。乾櫓の場所がわからなかったのですが見落としでしょうか。。
本丸まで到達しましたので、明石城の歴史を紹介です!
明石城は大坂夏の陣が終わってから建てられた、江戸時代のお城なんです。この明石の地は山陽、淡路島、丹波、但馬の各方面へ繋がる重要な地であるため、西国の外様大名監視の目的も含めて小笠原忠真が明石10万石に移封になった際に将軍徳川秀忠の命により築城されました。
この小笠原忠真は、信濃守護職で武田信玄に滅ぼされた小笠原長時のひ孫にあたるんです。その後長時の子の貞慶は家康に仕えるのですが、なんと、石川数正とともに豊臣秀吉の元に出奔してしまいます。あーあー、、その後、家康に再度仕えるんですが、そりゃ一度逃げ出しているんだから気まずいですよね。。そこに大坂の陣が起こります。貞慶の子、つまり忠真のお父さんである秀政は大坂方の猛攻の前に長男の忠脩と共に戦死してしまいます。そのため次男の忠真が小笠原家を継ぐことになりました。お父さんとお兄さんの戦死は結果的に徳川家への忠誠をアピールした形となり、譜代大名としての確固たる地位を得ました。同じく出奔した石川家は改易されてますからね。。
で、この忠真のお母さんは松平信康の娘になるんです。つ・ま・り、徳川家康のひ孫に当たるんですよね。忠真は同じく松平信康の娘が奥さんの姫路城主本多忠政(本多忠勝の息子)のサポートを得て、しかも幕府から金銭的なサポートも得るという豪華な待遇で築城したんです。幕府としては姫路、明石という要衝に巨大な城と譜代の大名を配置することで西国の大名を監視したんですね。
本丸のすぐ裏にある桜池。この池が城の防御になるという理由でこの地が選ばれたとも言われています。
長~い堀だなぁ。。
この堀の前に家臣の織田家の長屋門というのが現存しています。この織田家はあの織田家の末裔らしいですよ。だれの子孫だったんですかねぇ?
歴史が書かれている看板。
いや~とにかくこのお城はデカイデカイ。。全国高等学校軟式野球選手権大会をやっている歴史ある野球場や陸上競技場、自転車競技場(!)などのスポーツ施設がすっぽり城内に入っています。櫓しかないお城だと思うと見て回るのに苦労することになります。阪神大震災後の修繕もあるかもしれませんが、石垣がとても美しいです。個人的には戦国時代以降の“平和な時代のお城”はあまり好きではないのですが、防御にも優れたとてもよいお城だと思いました。
お約束の駅から撮影で締めましょう。
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明石駅に到着すると、明石城の「例の櫓」がもう見えています。
駅を出て信号を渡ればそこは明石城です。いや~近い。
大手門から三の丸に入城します。「例の櫓」の撮影スポットです。
それにしても三の丸はでかい、、右側に庭園のようなものがあります。
「武蔵の庭園」は明石に客分として招かれていた宮本武蔵が明石城内に作ったとされる庭園をこの位置に復元したもののようです。動画で入ってみましょう♪
「例の櫓」の一つ目、東側にある巽(たつみ)櫓の真下にやってきました。
それでは巽櫓をナメるように(?)見上げてみましょう。巽櫓は伏見城から移築されたと言われています。
なかなかの高石垣ですねー♪続いて「例の櫓」の二つ目、西側にある坤(ひつじさるやぐら)櫓の真下にやってきました。
こちらも同様にナメるように(??)見上げてみましょう。坤櫓は近くにあった船上城から移築されたと言われています。
本丸に到達です。二つの櫓の間は展望台のようになっていて、明石の町並みを一望できます。
動画でどうぞ(ちょっと夕方になっていますが、、)
真ん中に淡路島、左側には明石海峡大橋が見えます。海にも近くいい景色です♪
二つの櫓の間にある塀の狭間から明石駅を見ます。ちょっとゴルゴ13気分?
坤櫓のすぐ隣に天守台があります。が、天守閣はつくられませんでした。。
この本丸には天守閣は建てられなかったのですが、本丸の四隅に櫓が建てられて囲まれていました。残りの二つの櫓が乾櫓および艮櫓といわれています。艮櫓の跡地です。乾櫓の場所がわからなかったのですが見落としでしょうか。。
本丸まで到達しましたので、明石城の歴史を紹介です!
明石城は大坂夏の陣が終わってから建てられた、江戸時代のお城なんです。この明石の地は山陽、淡路島、丹波、但馬の各方面へ繋がる重要な地であるため、西国の外様大名監視の目的も含めて小笠原忠真が明石10万石に移封になった際に将軍徳川秀忠の命により築城されました。
この小笠原忠真は、信濃守護職で武田信玄に滅ぼされた小笠原長時のひ孫にあたるんです。その後長時の子の貞慶は家康に仕えるのですが、なんと、石川数正とともに豊臣秀吉の元に出奔してしまいます。あーあー、、その後、家康に再度仕えるんですが、そりゃ一度逃げ出しているんだから気まずいですよね。。そこに大坂の陣が起こります。貞慶の子、つまり忠真のお父さんである秀政は大坂方の猛攻の前に長男の忠脩と共に戦死してしまいます。そのため次男の忠真が小笠原家を継ぐことになりました。お父さんとお兄さんの戦死は結果的に徳川家への忠誠をアピールした形となり、譜代大名としての確固たる地位を得ました。同じく出奔した石川家は改易されてますからね。。
で、この忠真のお母さんは松平信康の娘になるんです。つ・ま・り、徳川家康のひ孫に当たるんですよね。忠真は同じく松平信康の娘が奥さんの姫路城主本多忠政(本多忠勝の息子)のサポートを得て、しかも幕府から金銭的なサポートも得るという豪華な待遇で築城したんです。幕府としては姫路、明石という要衝に巨大な城と譜代の大名を配置することで西国の大名を監視したんですね。
本丸のすぐ裏にある桜池。この池が城の防御になるという理由でこの地が選ばれたとも言われています。
長~い堀だなぁ。。
この堀の前に家臣の織田家の長屋門というのが現存しています。この織田家はあの織田家の末裔らしいですよ。だれの子孫だったんですかねぇ?
歴史が書かれている看板。
いや~とにかくこのお城はデカイデカイ。。全国高等学校軟式野球選手権大会をやっている歴史ある野球場や陸上競技場、自転車競技場(!)などのスポーツ施設がすっぽり城内に入っています。櫓しかないお城だと思うと見て回るのに苦労することになります。阪神大震災後の修繕もあるかもしれませんが、石垣がとても美しいです。個人的には戦国時代以降の“平和な時代のお城”はあまり好きではないのですが、防御にも優れたとてもよいお城だと思いました。
お約束の駅から撮影で締めましょう。
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