勝龍寺城訪問記【京都の要衝といわれるが本当??】 [城-京都府]
今回のお城訪問記は京都編。京都の要衝、勝龍寺城攻めです!!
勝龍寺城はJR京都線 長岡京駅から歩いて10分ほどのところにあります。駅を出て信号を右折してからず~っとまっすぐ歩くのですが、お城の手前200mの左側にある神足神社に土塁と空堀の遺構が残っています。
神足神社の境内の反対側にも金網に囲まれていますが土塁が現存してます。
この土塁と空堀は細川藤孝が1571年(元亀2年)に勝龍寺城を拡張改修した際に外郭として築かれたものといわれています。なんでもこの辺りに神足城というもの(館?)があったらしく、それを郭内にとりこんだようです。
神足神社を後にすると、本丸が見えてきました。
いやいやなんとも立派な城跡じゃないですか~
北門跡は発掘調査を元に復原されたもので、L字型になっていて簡単に城内に入れないようになっています。
山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀はこの城に逃げ帰ってきましたが、夜陰に紛れてこの北門から本拠の坂本城を目指して落ち延びていきました。
本丸は3方向は城壁で囲まれているのですが、この門の西側は高さ10m、幅5mの大規模な土塁が築かれています。↓の写真で真ん中が少し低くなっていますが、ここから本丸の西側にある沼田丸に繋がっていました。
南側の入口に解説版があります。
本丸内は日本庭園風で管理棟が建っています。
この建物は正直ガッカリしている方、多いのではないでしょうか?さすがにキレイすぎてウソ臭いですよね。。外見はガッカリですが、中は1階が休憩所で2階が発掘調査時の資料館になっています。例えば出土した鉄砲玉が展示されているんですが、逃げ込んだ明智軍に対して羽柴軍から打ち込まれたものでしょうかね?それともそれ以前に織田軍の三好三人衆の一人、岩成友通攻撃に使われたもの??大変興味深く勉強になります。あ、ちなみに無料です♪
三好三人衆の話も出ましたので、ここで勝龍寺城の歴史を紹介~
勝龍寺城はいつ築城されたのかはっきりわかっていません。南北朝時代の1339年(延元4年)に北朝方の細川頼春が築いた城といわれていますが、この頼春の枝分かれとなる分家の子孫が藤孝にあたるため、藤孝がこの城の城主となるべくしてなった正当性を伝えたものという説があります。で、応仁の乱(1467年~)の時に西軍の拠点になったあたりからがこのお城(当時は防御施設よいうよりは役所的な場所)が歴史の表舞台に出てきます。
戦国時代にこの辺りは三好氏の支配下となり、前出の岩成友通が城主でした。1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上京した際に5万の兵で勝龍寺城を攻めて降伏開城させました。そして細川藤孝が入城し、拡張改修しましたが、その後丹後宮津の移封となり京都所司代の村井貞勝の家臣が城代となっていました。
そして本能寺の変が起こります。貞勝は信長の長男信忠と共に二条御所で戦死し、京都が空白地になると、明智光秀が勝龍寺城と近くの淀城を確保します。光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に破れ勝龍寺城に逃げ込み、そこから
本拠の坂本城を目指して落ち延びましたが、皆さん御存知の通り、途中の小栗栖の藪で落ち武者狩りに遭って落命してしまいます。。その後、勝龍寺城は歴史から消えますが、ずっと後の江戸時代になってから1633年(寛永10年)に永井直清が山城長岡藩主となり、ボロボロの勝龍寺城を改修しようとしましたが、なぜか幕府から許可を得ることができずに駅の近くに屋敷をつくるのみになり、結局勝龍寺城は引き続き廃城だったようです。
資料館によると、駅をすぐ出たこのあたりにその屋敷があったようです。(多分。。)
さてお城に戻りましょう。城の西側は沼田丸という郭でした。
模擬の城壁ですがウェザリング※が効いていて時代を感じさせます。
※ウェザリング:汚れやサビを表現するプラモデル作成の際の用語
近くにあるベンチも輪になって座れるようになっていて、さすが憩いの場ですね♪
と、このベンチ(椅子?)を見てニヤリとした方、かなりの戦国通です。この椅子と真ん中の大きな○を上から見るとな、な、なんと細川家の家紋のデザインなんです。ユーモアが利いてます。
本丸から南東方向に200mで小畑川にぶつかるのですが、ここが大手門のあった場所のようです。
さて、この勝龍寺城は細川ガラシャの嫁入りの城というのを売りにしてます。藤孝が在城の際に長男忠興のもとに、明智光秀の娘お玉(ガラシャ)が嫁ぎ、盛大な結婚式を挙げて新婚生活を過ごしたところなんです。
本丸内にある忠興とガラシャの像
駅から勝龍寺城までの道は「ガラシャ通り」といいます。
来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」にも細川ガラシャが登場しますので盛り上がりそうです
ミムラ、初の大河ドラマ!細川ガラシャ役
http://www.sanspo.com/geino/news/100830/gnj1008300505019-n1.htm
この勝龍寺城は全国に広がっている発掘調査に基づいて復元されたお城のパイオニアのような所です。見る人によってはガッカリしてしまうかもしれませんが、絵図の資料が残っていないためなんとなく当時のイメージができればという感じでしょうか?小畑川と犬川の合流地点で水堀に囲まれているという以外はこれといって堅固な作りの城とは思えない「館」なのですが、天守が作られていたり、対鉄砲に対する防御を考えていたりと近代的な城郭の先駆けとして貴重な城と言えます。
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勝龍寺城はJR京都線 長岡京駅から歩いて10分ほどのところにあります。駅を出て信号を右折してからず~っとまっすぐ歩くのですが、お城の手前200mの左側にある神足神社に土塁と空堀の遺構が残っています。
神足神社の境内の反対側にも金網に囲まれていますが土塁が現存してます。
この土塁と空堀は細川藤孝が1571年(元亀2年)に勝龍寺城を拡張改修した際に外郭として築かれたものといわれています。なんでもこの辺りに神足城というもの(館?)があったらしく、それを郭内にとりこんだようです。
神足神社を後にすると、本丸が見えてきました。
いやいやなんとも立派な城跡じゃないですか~
北門跡は発掘調査を元に復原されたもので、L字型になっていて簡単に城内に入れないようになっています。
山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀はこの城に逃げ帰ってきましたが、夜陰に紛れてこの北門から本拠の坂本城を目指して落ち延びていきました。
本丸は3方向は城壁で囲まれているのですが、この門の西側は高さ10m、幅5mの大規模な土塁が築かれています。↓の写真で真ん中が少し低くなっていますが、ここから本丸の西側にある沼田丸に繋がっていました。
南側の入口に解説版があります。
本丸内は日本庭園風で管理棟が建っています。
この建物は正直ガッカリしている方、多いのではないでしょうか?さすがにキレイすぎてウソ臭いですよね。。外見はガッカリですが、中は1階が休憩所で2階が発掘調査時の資料館になっています。例えば出土した鉄砲玉が展示されているんですが、逃げ込んだ明智軍に対して羽柴軍から打ち込まれたものでしょうかね?それともそれ以前に織田軍の三好三人衆の一人、岩成友通攻撃に使われたもの??大変興味深く勉強になります。あ、ちなみに無料です♪
三好三人衆の話も出ましたので、ここで勝龍寺城の歴史を紹介~
勝龍寺城はいつ築城されたのかはっきりわかっていません。南北朝時代の1339年(延元4年)に北朝方の細川頼春が築いた城といわれていますが、この頼春の枝分かれとなる分家の子孫が藤孝にあたるため、藤孝がこの城の城主となるべくしてなった正当性を伝えたものという説があります。で、応仁の乱(1467年~)の時に西軍の拠点になったあたりからがこのお城(当時は防御施設よいうよりは役所的な場所)が歴史の表舞台に出てきます。
戦国時代にこの辺りは三好氏の支配下となり、前出の岩成友通が城主でした。1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上京した際に5万の兵で勝龍寺城を攻めて降伏開城させました。そして細川藤孝が入城し、拡張改修しましたが、その後丹後宮津の移封となり京都所司代の村井貞勝の家臣が城代となっていました。
そして本能寺の変が起こります。貞勝は信長の長男信忠と共に二条御所で戦死し、京都が空白地になると、明智光秀が勝龍寺城と近くの淀城を確保します。光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に破れ勝龍寺城に逃げ込み、そこから
本拠の坂本城を目指して落ち延びましたが、皆さん御存知の通り、途中の小栗栖の藪で落ち武者狩りに遭って落命してしまいます。。その後、勝龍寺城は歴史から消えますが、ずっと後の江戸時代になってから1633年(寛永10年)に永井直清が山城長岡藩主となり、ボロボロの勝龍寺城を改修しようとしましたが、なぜか幕府から許可を得ることができずに駅の近くに屋敷をつくるのみになり、結局勝龍寺城は引き続き廃城だったようです。
資料館によると、駅をすぐ出たこのあたりにその屋敷があったようです。(多分。。)
さてお城に戻りましょう。城の西側は沼田丸という郭でした。
模擬の城壁ですがウェザリング※が効いていて時代を感じさせます。
※ウェザリング:汚れやサビを表現するプラモデル作成の際の用語
近くにあるベンチも輪になって座れるようになっていて、さすが憩いの場ですね♪
と、このベンチ(椅子?)を見てニヤリとした方、かなりの戦国通です。この椅子と真ん中の大きな○を上から見るとな、な、なんと細川家の家紋のデザインなんです。ユーモアが利いてます。
本丸から南東方向に200mで小畑川にぶつかるのですが、ここが大手門のあった場所のようです。
さて、この勝龍寺城は細川ガラシャの嫁入りの城というのを売りにしてます。藤孝が在城の際に長男忠興のもとに、明智光秀の娘お玉(ガラシャ)が嫁ぎ、盛大な結婚式を挙げて新婚生活を過ごしたところなんです。
本丸内にある忠興とガラシャの像
駅から勝龍寺城までの道は「ガラシャ通り」といいます。
来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」にも細川ガラシャが登場しますので盛り上がりそうです
ミムラ、初の大河ドラマ!細川ガラシャ役
http://www.sanspo.com/geino/news/100830/gnj1008300505019-n1.htm
この勝龍寺城は全国に広がっている発掘調査に基づいて復元されたお城のパイオニアのような所です。見る人によってはガッカリしてしまうかもしれませんが、絵図の資料が残っていないためなんとなく当時のイメージができればという感じでしょうか?小畑川と犬川の合流地点で水堀に囲まれているという以外はこれといって堅固な作りの城とは思えない「館」なのですが、天守が作られていたり、対鉄砲に対する防御を考えていたりと近代的な城郭の先駆けとして貴重な城と言えます。
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ありがとうございます。今となっては近場です。長岡京には別途用もありま
して行こうと思ってたんですよね。今年中の晴れた土日に、いつか見に行
きます。
by ノリパ (2010-09-23 17:56)
ノリパさん、コメントありがとうございます。ノリパさん、大坂に行かれてからお城巡りがさらに活発になられているような???近畿地方にはいっぱいお城があってうらやましいですね♪
by fuzzy (2010-09-24 00:07)
通りすがりですが、先日何年かぶりに、神足神社の土塁と空堀遺構を見に行ったところ公園化するらしく、重機が入り土塁が一部崩れたり低くなったり、土橋も破壊されていました、どうしてそのまま保存しないのか?本丸の方もそうですが、長岡京市はどれだけ観光しか関心が無く、どれだけ遺構を破壊したら気がすむのか、本当に頭にきます、、、、
雰囲気もなにももう酷いです、、、
by やまさん (2014-12-14 20:38)
やまさん、はじめまして!
情報ありがとうございます!!
私は東京在住なので一回だけした訪れてないのですが、本丸から離れた住宅街にひっそりとあるので、観光地としてのプライオリティが低いのでしょうか?勝龍寺城の大きさがわかる遺構としては本丸よりこちらのほうが歴史的価値が高そうですが、なんとも残念ですね。。。
by fuzzy (2014-12-26 22:17)
音楽鳴らないようにしてもらえませんか?とにかくじゃま、マナー違反です。見たい話だったけど台無しです。
by 通りすがり (2015-09-09 14:05)