岩槻城訪問記(その2)【北条VS太田の仁義なき戦い】 [城-埼玉県]
さぁー、岩槻城訪問記のその2になります。いってみましょう!
その1にも出てきました地図を参照にされると位置がわかりやすいと思います。
まずは大手門から。岩槻商業高校近くの住宅街の中にあります。
大手門からすぐ近くに三ノ丸跡の碑があります。
後ろの消防車、ご覧いただけますよね?そうなんです。三ノ丸の碑は消防署の敷地内にあるんです。
県道2号線を北東へ。二ノ丸の碑があります。ひっそりと建っているので見逃さないように!
三ノ丸と二ノ丸の間に本丸跡の碑があります。
ちなみにこの碑はガソリンスタンドの敷地内にあります。。消防署の三ノ丸の碑といい、地元の協力が成り立っていますね。
残念ながら大手門から本丸まで宅地化が進んでいて遺構のようなものは見当たらなかったのですが、二ノ丸と本丸の間に土塁のようなものが、、、
動画でもどうぞ♪
なんとなく左右が櫓台のようにも見えますがいかがでしょう?ということはこの道は水掘だったのですようか??
続いて遺構の残されている新曲輪、鍛治曲輪へ。ここは岩槻城址公園として野球場は公園となっています。子供たちが遊んでましたが当時は水没していたハズ。
園内には二つの現存していた門が移築されています。
ひとつめは黒門。三ノ丸藩邸の長屋門として使用されていたらしいです。
ふたつめは裏門。この門はどこにあったかわかっていないそうです。
鍛治曲輪はがっつり土塁が残っていて、堀底は遊歩道となってます。
結構深いですよ~
動画でも見てみましょう♪
北条名物(?)障子堀もあったようです。現在は埋め戻されて土管でその位置を示しています。
この鍛治曲輪は丸馬出がマルっとわかりやすく残っています。馬出とは城の出入口に敵から一気に攻められないように正面に堀を設けた防御施設です。動画でご覧いただきたのですが、左右の出入口の真ん中が堀(当時は水堀?)になっています。
鍛治曲輪内に碑があります。岩槻城は別名白鶴城とも言われています。
それでは、岩槻城の歴史の紹介にいってみましょう!
岩槻城は他の関東の有名な城同様に太田道灌によって築かれたとされてます。そういえば川を外堀になっている地に築いているのは川越城に似ているような。。ところがWikによると忍城主の成田自耕斎が築いたという史料が発見されたらしいです。やっぱり忍城に似ているし。。
太田道灌の孫の資頼の時代に北条との間で岩槻城をめぐって取った取られたの時代が続きます。資頼の子の資正も上杉謙信のサポートを受けながら北条と対立していたのですが、なんと資正の子の氏資が北条家に内通し、戦に出ていた資正を追い出してしまったんです。その後氏資は戦死したため、北条家から養子をとって北条の城となっていました。そして豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。岩槻城は2千の兵で抗戦しますが、豊臣側の2万の大軍の前に数日で落城します。関東に徳川家康が入封すると譜代家臣の高力清長が2万石で入城し、以降何度か譜代大名の転封が繰り返されて幕末を迎えました。
岩槻城は1609年の火災で城のほとんどが焼失しそれ以降、本丸と二ノ丸は使われずに三ノ丸がお城の中心となっていたようです。
岩槻城に関してwebで調べると例の全く城の歴史と関係ない“赤い橋”の写真ばかりでそんなに期待していなかったのですが、なかなかどうして!非常に巨大な城だったのがわかりました。
残念ながらライバル(?)の川越城の方が小江戸としての観光地で有名ですが、岩槻も充実しています。
「時の鐘」
藩校跡の遷喬館(せんきょうかん)
区役所の太田道灌の像。川越市役所にもあったような。。本当に人気ですね。
行く価値アリです。是非♪
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その1にも出てきました地図を参照にされると位置がわかりやすいと思います。
まずは大手門から。岩槻商業高校近くの住宅街の中にあります。
大手門からすぐ近くに三ノ丸跡の碑があります。
後ろの消防車、ご覧いただけますよね?そうなんです。三ノ丸の碑は消防署の敷地内にあるんです。
県道2号線を北東へ。二ノ丸の碑があります。ひっそりと建っているので見逃さないように!
三ノ丸と二ノ丸の間に本丸跡の碑があります。
ちなみにこの碑はガソリンスタンドの敷地内にあります。。消防署の三ノ丸の碑といい、地元の協力が成り立っていますね。
残念ながら大手門から本丸まで宅地化が進んでいて遺構のようなものは見当たらなかったのですが、二ノ丸と本丸の間に土塁のようなものが、、、
動画でもどうぞ♪
なんとなく左右が櫓台のようにも見えますがいかがでしょう?ということはこの道は水掘だったのですようか??
続いて遺構の残されている新曲輪、鍛治曲輪へ。ここは岩槻城址公園として野球場は公園となっています。子供たちが遊んでましたが当時は水没していたハズ。
園内には二つの現存していた門が移築されています。
ひとつめは黒門。三ノ丸藩邸の長屋門として使用されていたらしいです。
ふたつめは裏門。この門はどこにあったかわかっていないそうです。
鍛治曲輪はがっつり土塁が残っていて、堀底は遊歩道となってます。
結構深いですよ~
動画でも見てみましょう♪
北条名物(?)障子堀もあったようです。現在は埋め戻されて土管でその位置を示しています。
この鍛治曲輪は丸馬出がマルっとわかりやすく残っています。馬出とは城の出入口に敵から一気に攻められないように正面に堀を設けた防御施設です。動画でご覧いただきたのですが、左右の出入口の真ん中が堀(当時は水堀?)になっています。
鍛治曲輪内に碑があります。岩槻城は別名白鶴城とも言われています。
それでは、岩槻城の歴史の紹介にいってみましょう!
岩槻城は他の関東の有名な城同様に太田道灌によって築かれたとされてます。そういえば川を外堀になっている地に築いているのは川越城に似ているような。。ところがWikによると忍城主の成田自耕斎が築いたという史料が発見されたらしいです。やっぱり忍城に似ているし。。
太田道灌の孫の資頼の時代に北条との間で岩槻城をめぐって取った取られたの時代が続きます。資頼の子の資正も上杉謙信のサポートを受けながら北条と対立していたのですが、なんと資正の子の氏資が北条家に内通し、戦に出ていた資正を追い出してしまったんです。その後氏資は戦死したため、北条家から養子をとって北条の城となっていました。そして豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。岩槻城は2千の兵で抗戦しますが、豊臣側の2万の大軍の前に数日で落城します。関東に徳川家康が入封すると譜代家臣の高力清長が2万石で入城し、以降何度か譜代大名の転封が繰り返されて幕末を迎えました。
岩槻城は1609年の火災で城のほとんどが焼失しそれ以降、本丸と二ノ丸は使われずに三ノ丸がお城の中心となっていたようです。
岩槻城に関してwebで調べると例の全く城の歴史と関係ない“赤い橋”の写真ばかりでそんなに期待していなかったのですが、なかなかどうして!非常に巨大な城だったのがわかりました。
残念ながらライバル(?)の川越城の方が小江戸としての観光地で有名ですが、岩槻も充実しています。
「時の鐘」
藩校跡の遷喬館(せんきょうかん)
区役所の太田道灌の像。川越市役所にもあったような。。本当に人気ですね。
行く価値アリです。是非♪
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