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佐々成政【秀吉とソリが合わなかった織田軍団のエリート】 [佐々成政]

今回もマニアックな武将小説でおなじみのPHP文庫の「佐々成政」からそんまんまですが、佐々成政をご紹介します!

佐々成政は織田信長の家臣団の中では、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益の第一集団の下で前田利家らと並ぶ二番手軍団のポジションではないかと考えられます。
この小説では、本能寺の変で織田信長が倒れた後からの話になっています。実際成政のそれ以前の活躍に関してはあまり知られていませんね。本能寺の変の時は北陸方面軍の柴田勝家のもとで越中一国を支配していたのですが、かなり有能な武将だったのでしょう。

清州会議後に秀吉と勝家が険悪なムードになると、成政は勝家側につきますが、越中の隣にいる越後の上杉景勝が秀吉側についたため、賤ヶ岳の戦いにも参加できずに勝家は破れてしまいます。賤ヶ岳の戦い後は表面上は秀吉と平静を保っていましたが、隣の加賀にいる前田利家は勝家を裏切って秀吉側についたため、成政としてはちょっと許せない心境だったのか、一色即発のムードが漂っていました。

すると、秀吉と信長の子の信雄の中が悪くなり、信雄を徳川家康が支援する形で小牧・長久手の戦いが勃発します。成政は信雄/家康側につき、加賀越中の国境付近で前田利家と戦いました。ところが、秀吉と信雄が単独で和睦してしまい。この戦いは終わってしまいます。単独で秀吉と戦うわけにはいかない成政は、再度家康に立ち上がってもらおうと直接交渉をしようと考えます。

ところが、越中の成政が家康に会いに行くには越後は景勝、加賀には利家の支配下で入ることができないため、成政は北アルプスを越えて家康の支配下である信濃に出る選択をします。
これが有名な「さらさら越え」です。
いや~その時真冬ですよ。テントもゴアテックスも無線機もない時代にかなりのムチャをしましたが、無事北アルプス越えに成功!家康に会えましたが、残念ながら家康は秀吉とこのタイミングでは戦う気はありませんでした。

結局、成政は秀吉に降伏。信雄のとりなしもあったため命は助けられましたが、越中の所領は没収されてしまいました。。

そんな成政に再度チャンスが巡ってきます。九州征伐の軍に加えられ、功を挙げた成政は肥後一国54万石を与えられます。

どうもこれが秀吉のワナにかかったっぽい。。

当時の肥後は50家以上の国人領主が治めている国で、所領は安堵されたため表面上は秀吉に降伏はしているが、新しく来る領主(成政)に対してあまりこころよく思っていませんでした。現代のビジネスでもよくありますよね。親会社から出向してくる社長はどうせ現場のこと知らないんだからいうこと聞かないでおこうとか(?)

国人領主達と成政は検地でもめ、一揆が勃発します。九州の他国の助けを得てなんとか一揆を終息させますが、成政は責任を取らされて所領没収、切腹をさせられます。

この後、小西行長と加藤清正が半国づつで無事に治めたことから、どうも秀吉は一揆が起ることを予測していて、猛将の成政に片付けさせつつ、責任を取らせて信長時代の先輩武将を葬り去るという一石二鳥なことを考えていたような気がします。

あまり知られていない成政について、資料をもとにした小説で勉強になると思います!

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タグ:佐々成政
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