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会津若松城(鶴ヶ城)訪問記(その2)【現存する御三階の謎】 [城-福島県]

会津若松城訪問記のその2です!

会津若松城唯一の現存する建物である御三階はお城から少し離れた只見線七日町駅の前の阿弥陀寺のあります。
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横から
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裏側~
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なんだか一階部分がやけに豪華なのですが、これは城内から移築された際に本丸御殿玄関も移築され合体したようです。
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外から見ると三階建てなのですが、実は二階と三階部分に部屋があり実は四階建てなのです。


建物の中、ご覧になりたくないですか??


ネットで検索したところ、60MOLTBWさんという方が内部を撮影した動画がありましたのでご覧ください。確かに四階建てなんです。


この御三階は密談をする場所として使われていたとのことですが、お城の櫓としてはなんともハイカラなデザインだと思いませんか?御三階は蒲生氏郷の代に作られたものらしいのですが、氏郷といえば、利休七哲の一人である茶の湯の名人であり、キリシタンとしても知られています。この建物の中でお茶を立てていたかあるいはバテレン追放令の出された後でもこっそりこの建物の中で神に祈りを捧げていたなんて想像もできませんかね??

この会津若松城ですが、蘆名氏によって作られた東黒川館というのがスタートのようです。なるほど決して天然の要害を利用したものではありませんが、会津盆地の中心に位置していることから政治経済の中心としてはよい立地条件だったのでしょう。

東黒川館から黒川城となり、戦国大名となった蘆名氏は伊達政宗によって滅ぼされますが、豊臣秀吉の配下になったことで、黒川城には蒲生氏郷が入城します。蒲生氏郷は黒川から若松と名前を変え城下町を作り、天守閣を立てました。残念ながら氏郷は若くして亡くなり、息子の秀行が継ぎますが、役不足で上杉景勝が入城しました。伊達政宗への防波堤の役目としてこの城は重要だったのですね。

関ヶ原の合戦の後またもや秀行が入りましたが、その後加藤嘉明→保科正之が入ってやっと落ち着き、会津松平家として戊辰戦争を迎えました。

東北随一の巨城である会津若松城の凄さは戊辰戦争で一ヶ月持ちこたえたことで証明されましたね。
今後御三階が移転される以外にもいくつかの櫓が復元される計画があるようですので、またゆっくり訪れたいです!

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