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亀井琉球守【尼子残党から大名になった鹿之介の弟分】 [亀井茲矩]

今回は岩井三四二氏の小説「亀井琉球守」から亀井茲矩の紹介です。

岩井氏の小説は以前このブログで「城は踊る」を紹介しました。酷評してしまいましたが。。
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301064819-1

今回紹介する茲矩はもともと湯国綱といいました。父親が尼子家の家臣でしたが、毛利家に滅ぼされた後、没落し国綱(小説では新十郎)は放浪の旅に出ました。父親については不明なのですが、新十郎の母親は多胡辰敬という尼子家で石見の城主にまでなった家であることを考えると、新十郎の父親も尼子家でそこそこ有名な家臣だったのではと予想できますね。

放浪中に山中鹿之介ら尼子残党軍に合流し各地で毛利軍相手に転戦しているうち、鹿之介に認められて鹿之介の奥さんの妹を娶りました。姉妹は尼子家の重臣亀井家の出だったので、
以後亀井茲矩と名乗るようになりました。

「あれ?尼子残党って羽柴秀吉に見限られて上月城で降伏したのでは??」

歴史をよくご存じの方ならこのような疑問を抱かれると思います。
上月城に尼子勝久や鹿之介が籠城している間、連絡係として茲矩は秀吉の陣営にいました。もしかしたら人質のような形だったのか、鹿之介に「死なすのは惜しい」というやさしさだったのか。。
ともあれ、勝久が切腹、鹿之介が殺された後も秀吉の下で鳥取城攻めで活躍し、本能寺の変後、明智光秀討伐に向かう秀吉から毛利が追ってこないように因幡防衛に努め、因幡鹿野城主に任命され、小さいながらも尼子残党から城を持つまでの武将になりました。

以後なかなか出世のチャンスのなかった茲矩に関ヶ原の戦いがやってきました。

茲矩は東軍の家康側につきましたが、関ヶ原では対毛利の陣地で毛利が動かなかったため何もせずい終わったのですが、戦後家康より西軍についた鳥取城攻撃の命を受けました。

「成功すれば鳥取城主だけでなく、因幡一国を与えられるかも。。」

胸躍る茲矩でしたが、一万石ちょっとの領主の軍隊は数百しかなく、籠城されてしまうと攻めきれません。そこで播磨の赤松広秀の力を借りてやっと落城させました。

因幡一国を夢見た茲矩になんと家康は大激怒!実は赤松広秀は西軍に当初ついていたのです。西軍側の武将の領地を取り上げたい家康にとって茲矩は敗者復活のチャンスを与えるという余計なことをしたのですね。そしてもうひとつは鳥取城下に火を放ってしまった事です。「ヤバい!」と思った茲矩は火をつけたのを広秀にせいにして、彼を切腹に追い込みました。

一国一城の主の目論みは失敗しましたが、それでも領地は3倍に加増されました。その後亀井家は石見の津和野に移封して明治維新を迎えます。尼子残党として残念だったのは尼子家の故郷である出雲国に領地を持てなかったことでしょうか。。

そんな茲矩は琉球の国主になることを秀吉に願い出たため、琉球守を秀吉にもらい以後名乗っていたのですが、残念ながらこの琉球守は官制にないもので秀吉による創作したものなんですね。。茲矩は本気で琉球征伐を夢見て一時は秀吉に許可を出されたようですが、結局は薩摩の島津が琉球を征伐しました。残念ながら琉球に領地を得ることはできませんでしたが、遠くシャムとの交易をはじめ、実業家としても活躍しました。

かなりマイナーな武将ではありますが、今回の小説はなかなか読みやすくてよかったです。

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