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悲歌 上月城 [尼子勝久]

今回の戦国ネタは、ブ●クオフでたまたま手に取った「引越し大名の笑い」という杉本苑子の歴史短編集の中にある「悲歌 上月城」です。
この短編集はだいぶ昔に「歴史読本」に連載されていたものとのこと。超短編です。28ページ(!)です。書評から話を広げるfuzzyとしては大助かりです!!

短編とはいいつつも東福寺の僧となっていた尼子勝久の前に山中鹿之助と立原久綱が迎えにきた所から、上月城開城後に鹿之助が備中国で護送中に殺されるまで、テンポの良い内容となっております。(テンポよくいかないと28ページで終わらないと思いますが。。)

で、何で「悲歌」なのかというと、毛利(吉川元春)VS織田(羽柴秀吉)の戦いで織田側の最前線の上月城でがんばっていた勝久や鹿之助だったのですが、信長の命令で秀吉は同じ播磨の別所長治攻めに集中すべく、上月城への援軍を撤退してしまいます。見捨てられた上月城はどうにもならずに降伏し、城兵の命と引き換えに勝久は切腹します。

上月城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9C%88%E5%9F%8E

さて、この尼子勝久なのですが、なんかかわいそうなんですよ~

皆さん御存知の通り、尼子家は毛利元就に攻められ滅亡しますが、勝久は尼子の本家筋ではありません。新宮党の話を書くと長くなってしまうのでまた今度にしますが、滅亡する12年前に尼子家の内輪もめの際に逃げ出せたのがまだ赤ちゃんの勝久だったのです(お父さん(誠久)もおじいちゃん(国久)もお兄ちゃんもこの時に殺されてしまいました)。その後、京都の東福寺でおとなしく僧となっていた勝久は、尼子家再興という名のもとに鹿之助達に担ぎ出され、何度も負け戦をしてまだ若いのに切腹することになります。折角鹿之助が探し出した尼子家の血筋もこれでとうとう絶えました。。
ちゃんちゃん。


、、、ウソです。


元就に攻められ滅亡したのは「大名」としての尼子家です。最後の当主義久とその弟達(倫久、秀久)は元就に命を助けられた後、毛利の客分として3人とも江戸時代までちゃんと生きています。もう再興の気がない義久達に愛想を尽かした鹿之助達が、勝久を探し出して旗印にしたということです。静かな僧としての人生がよかったのか、一瞬でも大将として何千もの兵を率いて歴史に名前を残した方がよかったのか。。。

ちなみに「悲歌 上月城」では鹿之助と共に勝久を担ぎ出した久綱は勝久とともに切腹しているのですが、通説では吉春に捕らえられた後に逃げ出して、久綱もまた江戸時代まで長生きしています。

立原久綱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%8E%9F%E4%B9%85%E7%B6%B1


「人担ぎ上げておいておまえだけ長生きしやがって。。」

そんな勝久の声が聞こえてきます[もうやだ~(悲しい顔)]







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