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歴史街道11月号 [真田昌幸]

ちょっと遅くなりましたが、歴史街道11月号は真田昌幸の特集をしています。


真田昌幸というと「表裏比興の者」と言われる謀将として知られますが、それは武田家が滅亡した後で、武田家が滅亡する最後の最後まで昌幸は武田の譜代家臣団ではないのに武田勝頼を助けました。

武田家が滅亡した後の昌幸が独立大名としての生き残り策がすごいですよねー。直後は織田信長に帰服して滝川一益の与力となりますが、すぐに本能寺の変がおきたことで甲斐、信濃、西上野の武田旧領から織田の勢力がなくなり、徳川、北条、上杉による草刈場となってしまいます。そんな中で昌幸は最初に信濃に侵攻してきた北条氏直に帰服しますが、氏直が徳川と上杉の挟撃を恐れて兵をちょっと引いた段階で今度は徳川家康の誘いに乗って帰服します。ところが徳川と北条が和睦してしまうんです。で、和睦の条件の一つが昌幸所領の西上野を北条に割譲しろというものだったのでこれは昌幸が納得しません。そのため徳川と手切れとなり、有名な第1次上田合戦となるのですが、昌幸は抜かりなく、上杉景勝と同盟を結びます。その後豊臣秀吉に臣従しましたので、織田→北条→徳川→上杉→豊臣と主人を変えながら独立した大名へとなりました。

昌幸がここまで有名な大名になったのはいくつかのラッキーな事(?)があったんですよね。

①昌幸が人質として武田信玄の近習となり、信玄の近くで軍略の勉強が出来たこと
②真田幸隆の三男だった昌幸は武藤家の養子になっていたが、長男と次男が長篠の戦いで戦死したため、家督を相続することになったこと
③織田に攻められて滅亡寸前の武田勝頼を領地の岩櫃城に迎えようとしたが、結局小山田信茂の進言で勝頼が来なかったこと
④織田信長に殺されなかったばかりか本領安堵されたこと&すぐに本能寺の変で死んでしまったこと
⑤徳川と手切れになったときに小牧・長久手の戦いがあり、その間に上田城を改築する時間が稼げたこと

昌幸というと上田城で2回も徳川軍に勝っているため、軍略家のイメージが強いですが、大名の間に挟まれた小名としての駆け引きは今川、上杉、北条と駆け引きをしていた信玄の間近で学んだことが生かされた計略家、知略家の面が大いに発揮されたのではないでしょうか?


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