歴史街道3月号 [島津義弘]
なんか、今週は新聞やらテレビで「甲冑パンツ」が話題になっていたような。。
http://www.sido-collection.com/
いろいろツッコミどころ満載でブログにも書きたいのですが、その他の戦国ネタもたまってきているのでそれは又今度。
さて、歴史街道3月号が発売してから結構経っていました。
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/
3月号は島津義弘の特集です!私の好きな武将の一人です!!戦国武将好きの皆さんはいかがですかね?
島津義弘の魅力は少ない手勢でいかに大軍に立ち向かい、そして勝利に結びつけたかという点だと思います。それを可能にしたのは、みなさん御存知(?)の島津の必勝戦法「釣り野伏(のぶせ)」です。
「釣り野伏」ってのは、隊を3隊以上に分けて1隊を囮部隊にして、わざと敗走させます。その囮部隊を追ってきた敵の側面に隠れていた部隊が攻め入り、混乱したところで囮部隊も反転して攻撃に参加し、包囲殲滅するという作戦です。一回ひっかかったら噂が広まって二度とひっかからないような気がするのですが、何度もコロコロとひっかかるんですよね。
「釣り野伏」の有名な戦いは、「九州の桶狭間」といわれる木崎原の戦い。この戦いは島津義弘がわずか三百の手勢で日向の伊東祐安軍三千を撃破し、祐安を討ち取ったものです。次に耳川の戦い。四万三千の大友軍に対して、三万の島津軍は「釣り野伏」をしかけて、大友軍の名だたる武将を討ち取り、この戦いの後に大友宗麟は没落していきます。
島津義弘の一番有名な戦いは関ヶ原の敵中突破だと思いますが、すんごいのは朝鮮出兵時の泗川の戦いで明の二十万の大軍に7千で勝ったことです。このとき三万八千余の敵を討ち取ったのにたいして島津軍の犠牲はわずか二人だけだったらしいです。さすがに信じられないですが。。これらの戦いは「歴史街道」で図説していますので、興味があれば読んでみてください。「釣り野伏」は図説を見ると理解しやすいと思います。
さて、戦国武将として有名な義弘ですが、実は次男なので当主は長男の義久でした。義久はほとんど鹿児島から動かず戦いは義弘や弟の歳久、家久が行っていたので義弘の方が有名なんですね。ちなみに義久には男の子がいなかったので、義弘の三男の忠恒が義久の養子となって初代薩摩藩主となります。なんで三男なのかというと、義弘の長男(鶴寿丸)は早世、次男の久保は朝鮮出兵の時に二十一歳の若さで死んでしまったからなんです。
いや~強い強い。
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島津義弘の魅力は少ない手勢でいかに大軍に立ち向かい、そして勝利に結びつけたかという点だと思います。それを可能にしたのは、みなさん御存知(?)の島津の必勝戦法「釣り野伏(のぶせ)」です。
「釣り野伏」ってのは、隊を3隊以上に分けて1隊を囮部隊にして、わざと敗走させます。その囮部隊を追ってきた敵の側面に隠れていた部隊が攻め入り、混乱したところで囮部隊も反転して攻撃に参加し、包囲殲滅するという作戦です。一回ひっかかったら噂が広まって二度とひっかからないような気がするのですが、何度もコロコロとひっかかるんですよね。
「釣り野伏」の有名な戦いは、「九州の桶狭間」といわれる木崎原の戦い。この戦いは島津義弘がわずか三百の手勢で日向の伊東祐安軍三千を撃破し、祐安を討ち取ったものです。次に耳川の戦い。四万三千の大友軍に対して、三万の島津軍は「釣り野伏」をしかけて、大友軍の名だたる武将を討ち取り、この戦いの後に大友宗麟は没落していきます。
島津義弘の一番有名な戦いは関ヶ原の敵中突破だと思いますが、すんごいのは朝鮮出兵時の泗川の戦いで明の二十万の大軍に7千で勝ったことです。このとき三万八千余の敵を討ち取ったのにたいして島津軍の犠牲はわずか二人だけだったらしいです。さすがに信じられないですが。。これらの戦いは「歴史街道」で図説していますので、興味があれば読んでみてください。「釣り野伏」は図説を見ると理解しやすいと思います。
さて、戦国武将として有名な義弘ですが、実は次男なので当主は長男の義久でした。義久はほとんど鹿児島から動かず戦いは義弘や弟の歳久、家久が行っていたので義弘の方が有名なんですね。ちなみに義久には男の子がいなかったので、義弘の三男の忠恒が義久の養子となって初代薩摩藩主となります。なんで三男なのかというと、義弘の長男(鶴寿丸)は早世、次男の久保は朝鮮出兵の時に二十一歳の若さで死んでしまったからなんです。
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