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歴史街道4月号 [別所長治]

現在歴史街道は5月号が発売されているのですが、4月号に関してご紹介していませんでしたので今日は4月号から戦国ネタを。。

4月号の特集は竹中半兵衛と黒田官兵衛の「秀吉の二兵衛」が特集されています。2月号は「直江兼続」、3月号は「島津義弘」と3ヶ月連続で戦国時代が特集になるのは歴史街道としては結構珍しいことです。

半兵衛は秀吉の前半期、官兵衛は後半期を軍師として支えた2人なんですが、2人がかぶっている時期があります。それが播州平定戦の時です。とはいっても半兵衛は途中で死んでしまいましたし、官兵衛は荒木村重に捕まって有岡城の牢屋にいた時期もありましたが、、、この2人に攻められても2年間三木城に籠城してがんばっていた武将がいます。今回は二兵衛ではなく、攻められていた側の武将、別所長治を紹介します。半兵衛と官兵衛はいつでも紹介できますからね。

さて、この長治はお父さんの安治が死んでしまったため、わずか13歳で当主の座につきました。その頃の播磨(今の兵庫県のあたり)の領主達は毛利(宇喜多)と織田の勢力に挟まれてどちら側につくか悩んでいました。そんな中で長治は早い段階で信長派についていました。京都で信長に直接会ってそのときに手厚くもてなされてもいるんですね。で、じゃ俺も俺もってな感じで別所家より小さい豪族達も揃って信長側についたため秀吉の播磨攻略は順調に進んでいきました。ところが事件が起きてしまいます。。

毛利攻めの軍議の際に、秀吉が別所家に対して上から目線で「いいからさー、お前ら俺の言ったとおり働けばいいんだよ」的な発言をしてしまったのです。軍議に出ていた長治の叔父の吉親(賀相)はもともと毛利派だったのと東播磨一の名門のプライドが傷つけられたことで長治を説得して毛利側に寝返ってしまいます。で、じゃ俺も俺もってな感じで別所家より小さい豪族達も揃って毛利側につきました。そして有名な「三木の干し殺し」が戦法が使われます。別所軍ががんばったのと、その時の秀吉軍の軍勢が大軍でなかったことや荒木村重の裏切りなどがあり、この戦いは22ヵ月も続きました。こんな長い籠城戦は聞いたことないですねー。
 
結局長治は城兵の命と引き換えに、弟友之や妻子と共に自害しました。城兵の命を守った長治は今でも地元では
名君となっているようです。

ちなみに、三木城で別所家は滅亡したかに思えますが実は長治にはもう一人重宗(重棟)という叔父がいたのですが、吉親と仲が悪く別所家が毛利側についた際も秀吉側にいてそのまま家臣になりました。この重宗の奥さんは福島正則のお姉ちゃんでその間に生まれた七男の正之は正則の養嗣子となります。ちなみにちなみに吉親の後を継いだ長男の吉治は病気を理由に参勤交代をしなかったのですがその間に鷹狩をやっていたのがばれて改易されてしまいます。

なんか休場してたのにモンゴルでサッカーやっていた朝青龍に通じるところがありますな。。


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