Pen 9/1号【戦国武将特集です!】 [上田宗箇]
Penという男性誌があるのですが、今売っている号で「もっと知りたい戦国武将。」というタイトルで戦国武将の特集をしています。
http://pen.hankyu-com.co.jp/
聞いたところによると、編集部では最近戦国武将がブームになっていることもあり、外部に戦国武将の特集を企画しているのがばれないように隠密に進められたらしいです。
その甲斐あってか、この特集はただ単に戦国武将を紹介しているのではなく、戦国武将の隠れた才能や美的センスの紹介をしており一風変わった内容となっています。香道に通じていた伊達政宗、建築家としての藤堂高虎の紹介や有名な武将の甲冑やお城、刀や槍などを美的センスの観点で掲載しているのでご覧になってみてはいかがでしょうか?
さて、そんな中で作庭家の上田宗箇(そうこ)が紹介されていました。この人は茶道の上田宗箇流の流祖でもあるらしく、fuzzyは恥ずかしながら知らない人だったのでちょっと調べてみるとかなりの武将だったことが分かりました。
上田宗箇は剃髪後の名乗りで上田重安というのが本名だそうです。もともと丹羽長秀の家臣だったのですが、豊臣秀吉の家臣となり独立大名となります。しかも豊臣姓まで賜っているんですね。これには理由があるのです。宗箇の奥さんは杉原家次の娘なんですよ。で、家次といえば秀吉の奥さんの寧々の叔父さんにあたるので宗箇と秀吉は遠~~い親戚の間柄なんです。
そんなわけで秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍についたため領地を没収、隠居して宗箇と名乗りました。その後蜂須賀家政の客将となり、徳島に移り住み初めて庭を手がけます。(徳島城表御殿庭園)
そして今度は浅野幸長の家臣となりました。幸長のお父さん長政は浅野家の養女となった寧々の妹(?)ややと結婚しており、つまり、幸長と宗箇は遠~~~~い親戚の間柄なんですね。幸長のもとで1万石という厚遇で家臣となったのですが、庭ばっか作っている宗箇に対して、幸長の他の家臣は彼のことをバカにしてたんです
ところが。。
大阪の陣が起こります。
浅野軍の一員として出陣した宗箇はもともと勇将として知られていた武将、夏の陣ではなんとあの有名な大阪方の塙団右衛門を討ち取ったのです。
すんごいところを見せた宗箇は浅野家でさらに厚遇され、晩年は茶道と庭作りに励み、浅野家の別邸縮景園などを作ったそうです。
いや~文武両道の人ってこういうことをいうんでしょうねー。
とは言っても宗箇は作庭家になることは運命だったのかもしれませんね。
え?なぜって?
それは丹羽氏(→にわし→庭師)に仕えていたんだから。。
お後がよろしいようで~
↓「うまい、座布団一枚!!」と思われたらクリックを(笑)
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上田宗箇は剃髪後の名乗りで上田重安というのが本名だそうです。もともと丹羽長秀の家臣だったのですが、豊臣秀吉の家臣となり独立大名となります。しかも豊臣姓まで賜っているんですね。これには理由があるのです。宗箇の奥さんは杉原家次の娘なんですよ。で、家次といえば秀吉の奥さんの寧々の叔父さんにあたるので宗箇と秀吉は遠~~い親戚の間柄なんです。
そんなわけで秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍についたため領地を没収、隠居して宗箇と名乗りました。その後蜂須賀家政の客将となり、徳島に移り住み初めて庭を手がけます。(徳島城表御殿庭園)
そして今度は浅野幸長の家臣となりました。幸長のお父さん長政は浅野家の養女となった寧々の妹(?)ややと結婚しており、つまり、幸長と宗箇は遠~~~~い親戚の間柄なんですね。幸長のもとで1万石という厚遇で家臣となったのですが、庭ばっか作っている宗箇に対して、幸長の他の家臣は彼のことをバカにしてたんです
ところが。。
大阪の陣が起こります。
浅野軍の一員として出陣した宗箇はもともと勇将として知られていた武将、夏の陣ではなんとあの有名な大阪方の塙団右衛門を討ち取ったのです。
すんごいところを見せた宗箇は浅野家でさらに厚遇され、晩年は茶道と庭作りに励み、浅野家の別邸縮景園などを作ったそうです。
いや~文武両道の人ってこういうことをいうんでしょうねー。
とは言っても宗箇は作庭家になることは運命だったのかもしれませんね。
え?なぜって?
それは丹羽氏(→にわし→庭師)に仕えていたんだから。。
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