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歴史街道11月号【可哀想な長宗我部信親】 [長宗我部信親]

ちょっと時間が空いてしまいましたが、前回の続きでーす。

豊臣秀吉の四国征伐の前に土佐一国を安堵された長宗我部元親は、早速秀吉から九州征伐の先発隊を命じられます。元親は長男の信親を連れて行きます。ところが、この先発隊のメンバーが悪かったんです。。

元親・信親と共に先発隊に選ばれたのは十河存保という武将です。存保は「鬼十河」といわれた猛将で阿波、讃岐で元親と激しく戦い、結局元親に負けて秀吉に助けを求めました。

そして秀吉から派遣されたこの二人のお目付け役(軍監)は、漫画「センゴク」で一躍有名になった仙石権兵衛秀久でした。この権兵衛も四国征伐の前に四国に攻め入ったときに元親に攻められて淡路に撤退しているですね。つまり、存保、権兵衛は元親にある意味恨みがあり、この3人で協調しろといってもできない関係だったのです。

そんな訳で九州に上陸します。味方は6千、島津軍は3万。秀吉は本体が上陸するまで島津と戦うなと命令していたのですが、なんと権兵衛は島津に戦いを挑みます。(戸次川の戦い)

兵数でどう考えても勝ち目のない戦いに、さらに島津軍得意の釣野伏にひっかかってしまうと、なんと権兵衛は真っ先に逃げ出します。長宗我部軍もこの時点であれば逃げられたかもしれませんが、存保は留まって戦っています。こうなると意地の張り合いのようになり、信親も留まり、存保と信親は共に戦死をしてしまいます。信親はこのときまだ22才の若さでした。。

元親は辛うじて伊予の日振島まで逃げて信親が死んだ事を知ります。。

信親の死を信じない元親は島津軍に信親の遺骸確認のために使者を送りました。応対したのは島津家の家老新納忠元。島津家は戦いが終わると敵将兵の亡骸を懇ろに供養する家風があり、忠元は信親の遺骸と共に遺品を返礼しました。

元親は信親の将来性を高く評価して帝王学を学ばせていたんですが、長宗我部になんの得にならない、しょーもない戦いで大事な大事な長男を亡くしたことでものすごい落胆をみせ、長宗我部家の継嗣問題が起こります。。

次回に続きマース。ちょっと字ばっかりですいません。。

ちなみに、大失態を犯した権兵衛は秀吉の怒りを買って所領を没収され高野山に追放されます。ここから大名にまた復活したから漫画の題材になったんですね。。


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fuzzy

島津の強さは尋常でないですね、その島津に多勢に無勢状態で戦を挑むのとは、功を焦ったのでしょうか、無謀極まりない行為ですね。
by fuzzy (2009-10-25 12:23) 

fuzzy

fuzzyさん、コメントありがとうございます。
実は秀吉に助けを求めていた大友宗麟軍の城が島津軍に攻められていて落城寸前だったので、これを助けようと強引に島津軍に戦いを挑んだようです。いづれにしてもムチャでしたね。。
by fuzzy (2009-10-26 00:33) 

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