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織田信忠【信忠はなぜ信長と共に京都で死んだのか?】 [織田信忠]

12月になって初めての更新です。バタバタしてたもんで。。。

さて、今回はマニア武将の小説で有名な(?)近衛龍春氏の「織田信忠」から織田信忠を紹介します(そのまま。。)。

信忠はご存知、織田信長の嫡男です。あまり生涯について知られていませんが、これは信長が中央を制覇する後半になって一軍団として組織されたのと明智光秀に信長が本能寺を攻められたときに同時に攻められて死んでしまったからだと思われます。

この「信忠はなぜ逃げなかったのか?」というのはいまだに謎としてあります。

明智光秀が本能寺の信長を攻めた時に信忠は近くの妙覚寺に宿泊していました。光秀に本能寺が囲まれていることを知り、信長の救出に向かおうとしましたが、既に信長が自刃し、寺は燃えている事を伝えられます。この後、信忠のとった行動は妙覚寺の向かいにある堅固な造りの二条新御所に入り、ここで光秀軍と対決し、奮戦むなしく自害したのです。

「明智光秀ほどの武将が信忠を逃すような間抜けなことはしない」という見方もありますが、実はこの時に信忠と一緒にいた叔父さんの長益(有楽斉)はどさくさに紛れて逃げ、生き長らえていることから、逃げるチャンスは十分にあったのではと考えられます。信忠は数百の兵を持っていたことから全力で安土城まで戻り、留守居役の蒲生賢秀と共に安土城で籠城もしくは賢秀の居城の日野城まで逃げ、柴田勝家らの援軍を待つという方法はとれなかったでしょうかね?

この時26歳とまだ若かった信忠ですから、自分の父親が討たれたのに逃げ出すというのをよしとしなかったのかもしれません。もしくは仮に生き残ったとしても信長なしで織田家を支えていくのは無理と判断したか。。でも史書によりとこの信長と信忠は仲が悪かったという説もありますので、むしろ信長がいない方がのびのびとやれるような気もしますが。。

信長自体は朝倉攻めの時に浅井親子に裏切られたのを知るや否や、真っ先に逃げ出しており、逃げることは悪いことではないと信忠は知っていたと思いますが。。

ともあれ、謎の信忠の死ですが、もし信忠が京都から逃げていたら、羽柴秀吉の天下はなかったかもしれませんね。


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