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藤堂高虎【高虎のイメージが悪くなった鳥羽伏見の戦い】 [藤堂高虎]

明けましておめでとうございます。
本年も「戦国ネタブログ」をどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、今回は(も?)PHP文庫から徳永真一郎氏の「藤堂高虎」を紹介します♪

このブログで散々「徳永真一郎氏の小説はつまらん!」と声を大にして訴えてきたのですが、それは小説としての話。氏の小説を歴史解説本として考えればそれはそれで大変役に立つことを学びました。その最たるものが今回の小説では、と。

藤堂高虎の人生について細かくご存じな方はそんなに多くないかと思います。

「主君を取り替えて成りあがったゴマすり大名」

というネガティブな印象が強い高虎ですが、最近はお城絡みの特集が男性誌を中心に組まれることによって「城作りの名人」というポジティブな印象を持つ方も多くなってきているようにも思われます。

藤堂家はもともと近江の土豪で浅井長政に仕えてました。高虎のデビューは姉川の合戦で活躍し、長政にも認められましたが、織田方に寝返った近くの阿閉淡路守に仕えました。

が、この淡路守がしょーもないない武将だったので早々に見限り磯野員昌→織田信澄と主君を変えて羽柴秀長に仕えてやっと落ち着きます。

「阿閉淡路守を見限る」って最近聞いたフレーズではありませんか?

9月にこのブログでご紹介した渡辺勘兵衛もこの阿閉淡路守を見限っています。
後世の名を残した優秀な武将を二人も抱えていたのに逃げられる淡路守って。。しかも勘兵衛は後に高虎の家臣になるのです。偶然ってあるんですね。
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/archive/c2303160192-1

高虎は秀長の右腕として着々と出世をしていったのですが、秀長が死んでしまい、秀長から後見を託された秀長の後を継いだ秀保も若くして死んでしまったため、高虎は出家します。しかし、高虎の能力を評価した秀吉に呼び戻されここで高虎は一人の大名となります。

高虎は秀吉のもとでも活躍しましたが、秀吉の死後は徳川家康に近付き、外様大名にもかかわらずブレーンとして重用されます。

とどめは大阪夏の陣。高虎は長宗我部盛親と激しく戦って多くの重臣を死なせたことで家康の信頼を更に高めて、徳川の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というお墨付きをもらい、藤堂藩32万石の大大名としての地位を築きました。

そして時は過ぎ幕末、、

鳥羽伏見の戦いでは家康の遺訓通りに藤堂家は先鋒として薩長軍と戦うも、負けるとなった途端に薩長軍に裏切った事がまさに「藩祖の高虎のように主君を変える」といわれてしまい、出世するためにゴマする典型の武将として名を残してしまいました。。

譜代の家臣が裏切るのはまだしも、土豪レベルからスタートした高虎としては自分が信頼すべき上司や会社見つけるのは当たり前。特に若いころは槍一筋で武功を重ね、城造りを勉強し、晩年は和子入内のために朝廷との折衝役と、バランスのとれた武将で決してゴマすりだけで出世したわけでない事は高虎の人生を知ればわかる人が多くなると思います。


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