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千姫事件【坂崎出羽守直盛=宇喜多詮家】 [坂崎出羽守直盛]

先週の続きです。

さて、坂崎出羽守直盛は旧名を宇喜多詮家という名前だったんです。詮家は梟雄宇喜多直家の弟、宇喜多忠家の息子です。五大老宇喜多秀家は直家の息子ですので、秀家と詮家はいとこ同士ということになります。

宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで敗れて領地没収、八丈島に流されたのになんでまた秀家のいとこが大坂の陣の後に名前が出てくるのでしょうか???

話は豊臣秀吉の死後、そして関ヶ原の直前まで遡ります。。。

五大老の秀家は領国の備前にはなかなか戻れず、大坂での暮らしが続いていたんです。秀吉の養子として子供の頃からお坊ちゃん育ちの長い秀家は贅沢な暮らしをしていました。さらに岡山城の築城、朝鮮への出兵と莫大なお金を国元から送ってもらってたんです。国元には詮家をはじめとした宇喜多家の昔からの家老達がいて、秀家に不満を持ち始めます。大坂の秀家の元にも秀家のお気に入りの家老と奥さんの豪姫(前田利家の娘)についてきた家老がおり、この家老同士が対立しとうとう備前の家老達が武装蜂起し、家中が真っ二つに割れます。その仲裁に徳川家康が入り、結局備前にいた詮家を含めた家老達は家康の家臣になったんです。

関ヶ原の戦いで東軍側で戦った詮家は戦後、石見浜田藩、そして津和野藩の大名となります。このときに宇喜多嫌いの家康から「名前を変えろ」と命じられて以降、坂崎直盛と名乗ったのです。

時は流れて大坂の陣。。
直盛は落城寸前の千姫を助け出すという大金星をあげます。(これも直接直盛が助け出したわけではないというのが今は有力な説です。)

ここから千姫事件が起こるわけですが、諸説があるのです。

①「大坂城から千姫を助け出した者には千姫を与える!」という孫思いの家康の一言に奮起した直盛が火傷を負いながら千姫救出に成功。ところが、50過ぎのオッサンでしかも火傷のため醜い顔となった直盛を嫌がり、イケメンの本多忠刻のもとに嫁ぐことになったことを知った直盛は激怒。千姫を奪おうとして切腹を命じられた。(or直盛の家臣が徳川秀忠命じられて直盛を殺した)

②千姫を助けた直盛が家康に千姫の再嫁ぎ先の斡旋を依頼され奔走していたのに、本多忠刻との再婚が決定し激怒した直盛が千姫を奪おうとして切腹を命じられた。(or直盛の家臣が徳川秀忠命じられて直盛を殺した)

この千姫事件が起きたときには既に家康は死んでおり、直盛と家康の約束(しかも戦場での)がどういうものであったのかわからなかったため真相は闇の中なのですが、この直盛はかなり頑固な武将だったらしくおそらく家康と秀忠も手を焼いたのではないでしょうか?

なんだかかわいそうな感じがしますが、3万石の小大名の身の程を考えると、、、て感じですね。。


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