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天地人 第十八回 [安部政吉]

天地人、「御館の乱」に続く第2のヤマ場「魚津城の戦い」が盛り上がってきましたー。

越後は北は織田方に寝返った新発田重家、上野から滝川一益、信濃から森長可そして加賀から柴田勝家が魚津城を攻めているといった形で完全に取り囲まれています。

魚津城救援に来た景勝は信濃より森長可が春日山城に向けて進軍してきたため、援軍を春日山城へ戻すことにします。「天地人」ではこれは織田勢を越後国内で殲滅するための策となっていましたが、ちょっとその説は強引なような。。普通に考えたら織田軍の戦略として越中、信濃、上野と同時進軍して越後の上杉を攻めるのが常道だと思うのですが。。

兼続は、単身魚津城に潜入して吉江宗信、安部政吉らに降伏して越後に戻るよう説得に行きましたが、彼らは断固抗戦すると言い張ります。さすが上杉の武士道。

と、言いたいのですが、魚津在城衆十二名連署状というものが残っており、そこには「もうこれ以上持ちこたえることは無理なので潔く死にます。」というニュアンスのことが書かれています。助けを求めたがどうにもならなかったというのが本当のところだったのでしょう。

さて、安部政吉。葛山信吾が演じていてとってもさわやかです。兼続との別れのシーンをよかったですよね。そんな政吉はどんな人があまり詳しくはわかっていません。生年が不詳のため魚津城の戦いの時に何歳だったかは分からないのですが、兼続と同じく景勝の小姓仲間だったとするとまだ二十代だったのではないでしょうか?

来週の天地人で魚津城が落城し魚津城の守将12人は自刃します。その際に12人は耳に穴を開け、自身の姓名を記した木札を鉄線で通し、自刃したということです。そのシーンはあるでしょうか?

政吉ら12人が自刃して魚津城が落城したのは6月3日。そして本能寺の変は6月2日。本能寺の変の情報は柴田勝家のもとに6月4日に届いたのですが、もしあと一日早く届いていれば12人は生きて越後に戻れていたかもしれませんね。。

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