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戦国ニュース【“幻の城”敦賀城が出土!】 [その他]

なんとみんな大好き(?)大谷吉継の居城、福井の敦賀城が出土したらしいのです!!

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敦賀城の建物一部か、礎石出土 敦賀西小校庭で出土
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=20493&storytopic=5

敦賀市教委は19日、福井県敦賀市結城町の敦賀西小校庭から戦国武将・大谷吉継が拡張、整備したとの伝承がある敦賀城の建物の一部とみられる礎石が見つかった、と発表した。敦賀城郭の痕跡が発見されたのは初めて。礎石が見つかった同じ土層からは複数の瓦が出土していることから、当時勢力のあった武士たちが出入りしていた建物の礎石とみられている。

 市教委では「敦賀城はどこにあったか詳しく解明されておらず、謎に包まれた城。今回の出土で場所を特定する糸口が見つかった。貴重な史料」と価値を強調している。

 校庭東側の縦約5・5メートル、横約7・5メートルの範囲を深さ約2メートル掘ったところ、建物の柱の基礎となる礎石が20個以上出土した。建物の外周部の礎石とみられ、最大で直径60センチ近いものもあった。

 敦賀郡史によると、敦賀城は現在の結城町と三島町1丁目にまたがり、南北約500メートル、東西約300メートルの範囲にわたり、敦賀西小はこのエリア内に位置している。敦賀城は1583年から33年間しか存在しなく文献でしか分からなかった「幻の城」。積み重なる土層から礎石は戦国時代末期のものとみられ、城が存在した時期と合致した。

 敦賀城は1583年に領主となった蜂屋頼隆が現在の同市花城地区から移転、築城した。89年に領主となった大谷吉継が拡張整備したとの伝承が残っている。吉継は1600年の関ケ原の戦いで、西軍豊臣方の将として戦ったが敗れて42歳で自刃した。

 1615年に徳川幕府が出した一国一城令により、翌16年に敦賀城は取り壊された。

 敦賀市教委の中野拓郎学芸員は「石垣や天守閣のものではない。これまで伝承しかなかった敦賀城の痕跡が見つかったことで、このエリアを約2メートル掘れば何か別のものが出てくるかもしれない」と期待を込める。気比史学会の糀谷好晃会長も「文献でしか分からなかった幻の城が表に出た意義は大きい。礎石の地層の位置が確認され、今後の発掘につながる」と話している。

 耐震診断の結果を受けた新校舎への建て替えの一環で、昨年11月から建設予定地の試掘調査を進めていた。敦賀城のものとみられる礎石は掘り出して保存する。校庭は本年度内に埋め戻し、今後の調査の予定はない。新校舎建設は7月ごろに着工する見通し。22日午後1時半から同市教委が現地説明会を行う。


「幻の城」敦賀城遺構、発掘調査で初めて確認
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100320-OYT1T00210.htm

福井県敦賀市教委は19日、同市結城町の市立敦賀西小学校校庭で、敦賀城の一部とみられる16世紀末の建物跡を発掘したと発表した。

 敦賀城は、関ヶ原の戦い(1600年)の奮戦ぶりで知られる戦国武将大谷吉継の居城だったが、江戸幕府の一国一城令により、築城から約30年で姿を消した“幻の城”。古地図などから同校周辺にあったことはわかっていたが、発掘調査で遺構が確認されるのは初めてという。

 調査は、新校舎建設に先立って昨年11月から行われており、これまでに明治時代の裁判所や江戸時代の奉行所の跡も見つかっている。敦賀城のものとみられる建物跡は地下約2メートルの地層から出土。柱を置いた礎石が20個以上あったほか、同時代の陶磁器や瓦などが見つかった。

 市教委文化振興課の中野拓郎係長は「城郭の一部を構成していた建物と考えられる。これまでは伝承しかなかった敦賀城の全容解明につながる貴重な発見だ」と話している。22日午後1時30分から、現地説明会が開かれる。

(2010年3月20日10時27分 読売新聞)
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敦賀城は関ヶ原の戦いで大谷吉継が自刃ののち、一国一城令で廃城となってしまい、現在は敦賀城の門が移設されている以外はどういうお城だったのか全くわからないお城だったんですね。

残念ながら調査後は埋め戻されて、お城としての復元はないようですが、秀吉に「百万の兵を指揮させたい」と言わせた吉継が拡張した縄張りが少しでもわかればうれしいことです♪

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コメント 7

fuzzy

治世能力は三成を凌ぐと謂われた吉継は、三成人気復権とともに人気上昇の智将ですね。関ヶ原での奮闘は宇喜多とともに歴史に名を残しました。
私も好きな武将です。お城は謎のままなのですね、でも逆にロマンを感じることもありますね。
by fuzzy (2010-03-24 16:14) 

Tommy

調査後は埋め戻されて城としての復元が無いのは残念です。
CGか何かで、大谷吉継がどんな城に住んでいたか見てみたかったですね。
by Tommy (2010-03-25 17:47) 

fuzzy

fuzzyさん、いつもありがとうございます。
大谷吉継自身も結構謎につつまれた武将なのにお城まで謎につつsまれているとは、、そんなところも人気なのかもしれません。
by fuzzy (2010-03-26 00:25) 

fuzzy

Tommyさん、コメントありがとうございます。
なんでも敦賀城は水城だったらしいです。どんなお城だったんでしょうか?
埋め戻すまでに何か大発見があるといいですね。
by fuzzy (2010-03-26 00:32) 

袋田の住職

交通の要所でもありますね。
敦賀市は・・・
かつて、水戸の天狗党がそこで捕えられている
水戸とはゆかりの地です。
茨城県の結城市とも縁があるようです。
by 袋田の住職 (2010-03-26 18:06) 

fuzzy

袋田の住職さん、コメントありがとうございます。敦賀は港町として経済的に栄えた重要な町だったので股肱の臣の吉継に任せたのかもしれませんね。敦賀と水戸につながりがあるとは、、、知りませんでした。
by fuzzy (2010-03-28 03:36) 

袋田の住職

水戸藩で騒乱を起こした天狗党は今日を目指して西上しますが、京都へは入れず敦賀で投降し処刑されます。
袋田でも天狗党と諸生派の戦いがありました。。。
実戦を経験した天狗党は少人数でも強く、街道中の諸藩は進軍を止められなかったそうです。。。
by 袋田の住職 (2010-04-05 17:31) 

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