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歴史街道4月号【徳川VS北条VS上杉-天正壬午の乱】 [徳川家康]

東京は真冬のような寒さです、、来週から4月なのに。。
暖かくならないとお城巡りにいくのも億劫になりますね。

さて、歴史街道4月号は徳川家康の特集です。
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/

今川義元の上洛から小牧・長久手の戦いを紹介しています。このブログをご覧の方は家康の人生の戦いはほとんど御存知だと思いますが、今日はあまり知られていない本能寺の変後に堺から岡崎に逃げ戻ってから小牧・長久手の戦いまでの家康の空白期間を御紹介したいと思います。この間の戦いを天正壬午の乱といいます。

信長が武田家を滅ぼした後、信濃、甲斐、上野は森長可、河尻秀隆、滝川一益が治めていましたが本能寺の変で信長が死ぬと、森長可は本領美濃に逃げ、河尻秀隆は国人一揆と戦い戦死。滝川一益はこのチャンスに上野に攻めてきた北条氏直と戦い負けて伊勢に逃げ、武田の旧領は空白地となりました。

中央で清洲会議が行われている頃、家康は旧武田家遺臣への調略を進めて甲府に入ります。

一方、北条氏直は一益に勝った勢いで真田昌幸、木曽義昌らを配下に組み込み信濃に侵攻しますが、そこで上杉景勝と川中島で対峙します。景勝との勝負がつかない氏直は、家康と景勝に挟み撃ちされることを回避するために、景勝に北信濃を割譲することで講和、氏直は甲斐の家康を攻めてきました。

北条軍が4万3千の大軍に対して8千の徳川軍はそれぞれ若御子城、新府城に入りにらみ合いが続きます。
両者とも本国から遠く離れたところで戦っているので補給路を断つための戦略を立てますが勝負はつきません。

すると北条の別働隊1万が相模から甲斐に侵入、家康は4万と1万の大軍に挟み撃ちを受ける形となる大ピンチとなってしまいました。すると家康は鳥居元忠、水野勝成ら千5百(!)をこの1万の軍勢に向かわせ、な、ななんと勝ってしまいます。その後調略で真田昌幸、木曽義昌が寝返ったため、孤立した氏直は家康と講和を結びました。
この講和の条件として家康は信濃、甲斐を手に入れて三河、遠江、駿河と合せて5カ国の太守となったですね。

この講和条件には「上野を北条領にする」という項目が入っていたため、上野の沼田に所領を持っていた真田昌幸が沼田を北条に渡すのを拒んだために再度家康と対峙してあの有名な上田合戦に起こるんです。


天正壬午の乱はあまり知られていませんが、信濃と甲斐を手に入れるために家康は結構厳しい戦いをしていたんですねー。

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コメント 3

fuzzy

今読み始めた本は、北条氏照が主役の小説で、武田軍が関東侵攻で北条氏と争うところです。戦国期のメインは中京だと思いますが、関東も中々面白いですね、キーパーソンとも言える後北条氏の盛衰は味わい深いものが有ると思います。
by fuzzy (2010-03-30 16:07) 

fuzzy

fuzzyさん、コメントありがとうございます。返信遅くなりすいません。。
氏照ですか!マニアックですね。北条家は氏康の子供を中心にした一族の結束が固かったのが関東一円を制覇できた理由かもしれません。
氏照は氏政と共に切腹させられたことを考えれば、大の秀吉嫌いだったんでしょうねぇ。。
by fuzzy (2010-04-05 01:51) 

袋田の住職

実に興味深い記事ですね。
今まで注目されてこなかったのでは・・・
by 袋田の住職 (2010-04-05 17:27) 

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