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里見義堯【戦国4大ヨシタカの話】 [里見義堯]

突然ですが、私fuzzyの下の名前は“ヨシタカ”といいます。なので戦国武将の“ヨシタカ”には非常に親近感が沸きます。

一番有名なのが黒田ヨシタカ。官兵衛や如水の方が有名ですが、竹中半兵衛と並び戦国時代のトップに君臨する軍師と同じ名前というのは気持ちいいものです。

次に九鬼ヨシタカ。鉄甲船を作った海賊大名ですね。

3番目はちょっと残念な大内ヨシタカ。家臣の陶晴賢に裏切られ殺されてしまいます。う~ん、ちょっと残念なヨシタカ。

そして、4番目が今日ご紹介する里見ヨシタカもとい、義堯です。
里見というと、江戸時代のベストセラー「南総里見八犬伝」が有名です。私は子供の頃見た角川の映画かな?薬師丸ひろ子と真田広之がでていたやつ(古っ!)。夏木マリが怖かった~
閑話休題。
戦国時代の里見氏、里見義堯というとあ~んまりメジャーではないんですが、北条の執拗な攻めにもかかわらず、安房の国を守りきった気概はもっと有名になってもいいと思うのですが、さすがPHP文庫。このあたりのマイナー戦国武将もしっかりフォローしています。

さてこの義堯は里見家の宗家でなかったんです。義堯のお父さんの実堯は里見本家の義豊(実堯の兄義通の息子)に北条氏綱と通じているとして攻め殺され、義堯はその仇討ちをおこなって里見家の当主となりました。

その後、北条と手を切って上総に進出し、小弓御所の足利義明と組んで国府台で北条氏と戦うも敗退(第一次国府台合戦)。北条に本拠である久留里城を何度も攻められる大ピンチに義堯は上杉輝虎(謙信)と同盟を組む方針を取ります。北条も今川義元が桶狭間の戦いで敗死したことにより、武田と今川、北条の三国同盟が崩れて里見だけに目が向けられなくなると、再度上総に進出し息子の義弘が国府台でまたもや北条と戦いましたが、残念。負けてしまうんです。。(第一次国府台合戦)第一次は戦いでの損害は軽微でしたが、今回は多くの重臣を失う大損害を被ってしまいます。北条は強い。。すぐには北条は攻めてこなかったのでまたじわじわと上総の所領を回復していきますが、北条は内部崩壊を狙い重臣や同盟者に裏切りを画策して成功します、さらに今度は義弘の居城、佐貫城に北条の大軍が攻め込みます。このピンチに義弘は打って出て、北条の撃退に成功するんです。

ふーっ。ちょっと文章だらけになってしまいました。

そんな北条との一進一退が繰り広げる中、義堯天正2年(1574年)に死去します。

その後の里見家は、、

豊臣秀吉の小田原攻めの際に上総の所領と取り上げられるも、安房の所領を守り江戸時代に入ったのですが、突然慶長19年(1614年)に当時の当主忠義は改易されてしまいます。江戸の近くに外様大名がいるのが嫌だったんでしょうね。

国府台合戦の舞台となった国府台城は以前このブログで訪問記を書いていますのでこちらも参考にしてください。
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/2010-01-17

PHP文庫のマイナー武将の小説は、あまり明らかでない時期の創作があんまり面白くない場合があるのですが、
著者の小川由秋氏はかなり参考文献を研究されたようで。史実に基づいた展開で非常によい小説と思いました。

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コメント 2

sousi

勉強になりました。里見義康は、関ヶ原では東軍で戦ったようですね。

それである程度勲功もあり、加増されたということなのですが・・・改易となってしまったんですね。

やはり江戸から近すぎたという理由だけなのでしょうね。

by sousi (2010-10-06 11:03) 

fuzzy

sousuiさん、コメントありがとうございます。そうなんです。里見家は決して徳川に反する行為を全くしていないのですが、義康の息子の忠義の奥さんが大久保忠隣の孫娘ということで、忠隣の失脚に連座して改易されたんですね。いくらなんでもこれはいいがかりなような。。
by fuzzy (2010-10-07 00:45) 

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