淀古城訪問記【淀殿は淀城にいたから淀殿なんです】 [城-京都府]
この前、勝龍寺城を紹介しましたが、併せて訪問したいのが近くにある淀城です。で、この淀城は江戸時代以前と以後の二つのお城があるんです。今回は江戸時代以前の“淀城”(淀古城というらしいです。)を御紹介します!
淀古城は京阪電車の淀駅から500mほど、歩いて10分のところにあります。
が、
このお城訪問記でおそらく初となる「な~んにも遺構の残っていないお城」なんです。
う~ん、残念。。まわりは完全に住宅街になっているんです。
で、淀古城のあったといわれるところに妙教寺というお寺があります。
境内にお邪魔しまして、石碑を写真に撮らせていただきます。
石碑にも書かれていますが、なんでもこの辺りは幕末の鳥羽・伏見の戦いの時に激戦地だったとのこと。
遺構は何ものこっていないのですが、Wikiの画像を参照すると。。
妙教寺の前面に桂川、側面の小学校沿いに小さな川が流れており、四方を堀に囲まれた城跡のような感じがしなくないですね。妙教寺から桂川方面の動画をご覧下さい。前面に見えるのが桂川の土手です。
それでは、淀古城の歴史を紹介♪
桂川と宇治川に囲まれたこのお城は、応仁の乱時に畠山政長が東軍の拠点として築いたらしいです。その後、管領の細川家によって支配され、その細川家の後に三好長慶が京都を支配すると城主は何度か変わったようです。さらに時が進み、織田信長の時代になります。足利義昭が得意の御教書で信長包囲網を形成し、天正元年(1573年)2月二条城で挙兵しますが、あっという間に信長に降参します。ところが性懲りもなく7月に京都の槇島城で挙兵し、三次三人衆の一人の岩成友通が呼応し、淀古城に立てこもりました。義昭はまたもやあっという間に降参。淀古城には羽柴秀吉が攻めて来て友通は敗退します。
そして、本能寺の変が起こり、勝龍寺と淀古城は明智光秀の支配下になりましたが、山崎の戦いでの光秀の敗北によりその後は廃城になっていたのか、使われていたのかが不明ですが、淀古城にある人物がやってきます。秀吉の側室の茶々が子供を産むための城として淀古城が与えられました。それで茶々から淀殿と呼ばれるようになったんですね。このお城で秀吉の子の鶴松を産みます。その後は大坂夏の陣で活躍した木村重成のお父さん木村重茲が淀古城主となりましたが、豊臣秀次の事件に連座して自害。淀古城は廃城となりました。。
京都の要衝として応仁の乱から重要な位置を占めていたお城ですが、全く遺構がないのは残念です。。
次回はもちろん、“淀新城”の訪問記です!!
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遺構は何ものこっていないのですが、Wikiの画像を参照すると。。
妙教寺の前面に桂川、側面の小学校沿いに小さな川が流れており、四方を堀に囲まれた城跡のような感じがしなくないですね。妙教寺から桂川方面の動画をご覧下さい。前面に見えるのが桂川の土手です。
それでは、淀古城の歴史を紹介♪
桂川と宇治川に囲まれたこのお城は、応仁の乱時に畠山政長が東軍の拠点として築いたらしいです。その後、管領の細川家によって支配され、その細川家の後に三好長慶が京都を支配すると城主は何度か変わったようです。さらに時が進み、織田信長の時代になります。足利義昭が得意の御教書で信長包囲網を形成し、天正元年(1573年)2月二条城で挙兵しますが、あっという間に信長に降参します。ところが性懲りもなく7月に京都の槇島城で挙兵し、三次三人衆の一人の岩成友通が呼応し、淀古城に立てこもりました。義昭はまたもやあっという間に降参。淀古城には羽柴秀吉が攻めて来て友通は敗退します。
そして、本能寺の変が起こり、勝龍寺と淀古城は明智光秀の支配下になりましたが、山崎の戦いでの光秀の敗北によりその後は廃城になっていたのか、使われていたのかが不明ですが、淀古城にある人物がやってきます。秀吉の側室の茶々が子供を産むための城として淀古城が与えられました。それで茶々から淀殿と呼ばれるようになったんですね。このお城で秀吉の子の鶴松を産みます。その後は大坂夏の陣で活躍した木村重成のお父さん木村重茲が淀古城主となりましたが、豊臣秀次の事件に連座して自害。淀古城は廃城となりました。。
京都の要衝として応仁の乱から重要な位置を占めていたお城ですが、全く遺構がないのは残念です。。
次回はもちろん、“淀新城”の訪問記です!!
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