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首桶【戦わなかったけど後世に名前を残した吉川経家】 [吉川経家]

野中信二氏の著書に「西国城主」という小説があります。この小説は羽柴秀吉の有名な城攻めである三木城、鳥取城、備中高松城の3つを城主側から見たオムニバス(?)の短編集なんです。

今回は鳥取城の渇え殺しを題材とした「首桶」から吉川経家をご紹介します!

さて、鳥取城に関しては、以前城主の山名豊国のダメっぷりについてご紹介しましたが、
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/2010-12-12
家老達がダメな豊国を追い出してからの話です。

攻めてくる織田側の羽柴秀吉に対して豊国を追い出した家老(森下道誉、中村春続)は毛利側の山陰方面を担当している吉川元春に新たな城将の派遣を依頼します。元春は家臣を派遣しますが、城将としてはパッとしないため、家老達は「オレ達もさぁ~、毛利のために働いてんだからちょっと本気見せてよ」ということで、吉川家の一門を城将として送ってほしいと依頼します。そこで派遣されたのが吉川経家なんです。

経家は「吉川」という名前がついていますが、ご存知のように毛利元就の二男である元春が吉川家へ養子として送りこまれているので血縁関係はありません。しかも経家は吉川家の分家にあたり元春の家臣としての立場なんですね。

経家は自分の首桶を持って入城したことから「やっと本気の城将が来た!」と歓迎されます。

勇気凛々の経家。ところが、、、

兵糧倉の米がなんだか少ないような。。秀吉の策略により、不作のお隣の国である若狭から商人が来て米を高値で買ってくれるため兵糧を売ってしまったんです。さらに秀吉は領民を攻め立て鳥取城に逃げて入城するように仕向けます。
ただでさえ兵糧が少ないのに領民を抱えて城内の人数は多くなりますが、鳥取城は難攻不落の名城で秀吉は城を囲み手を出しません。
籠城4か月。攻めることも攻められることもせず、その間に毛利側の補給作戦も失敗し、城内にも餓死者が出始めました。そのため経家は秀吉の開城勧告を受け入れようとします。ところが、その条件が城主(豊国)を追い出した家老は切腹、経家と毛利家の家臣を領地へ戻すということでした。

納得いかないのは経家。城将として自分一人が責任を取ろうとします。秀吉としては今後の山陽、山陰攻略に寛大なイメージを持たせたいためになんとしても経家は逃がしたいところ。しかし、経家は頑として自分が切腹するといいます。

結局、経家と家老達が切腹し、鳥取城は開城しました。

もし経家が鳥取城に入城してなければ、山陰地方の山間(失礼!)の一領主として一生を終っていたかもしれませんが、責任を取って切腹したことで後世に名を残し、現在では鳥取城に銅像が建てられています。

ちなみにWikiで知ったのですが、先年他界した「笑点」の司会でお馴染みだった三遊亭円楽師匠はこの経家の子孫らしいです。

「山田ク~ン!秀吉の座布団、全部持ってって頂戴!!」

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