道明寺合戦古戦場訪問記2【『後藤又兵衛奮戦の地』碑のナゾ】 [古戦場-大阪府]
おまたせしました!
道明寺合戦古戦場訪問記の第2回目となります♪
今回は小松山の尾根沿いにある玉手山公園をご紹介します。この公園に後藤又兵衛関連の石碑があります。
公園は無料。早速、中に入ると観光地で有名な“アレ”の後藤又兵衛Ver.が迎えてくれます。
なんだか、殺風景な野外劇場。。
実はこの公園、昔は「近鉄玉手山遊園地」という名前の1908年(明治41年)に開業した、西日本で一番古い遊園地だったとのこと。昭和の中ごろまでは盛況だったのですが、入場者が減り閉園。現在は地元の柏原市の公園となっているのです。
この建物「アンティックな音楽堂」という名前で、開園当初からあるものらしいです。
いや~、寂れ方がハンパないって。。
と、
思って冷やかしに入った左側の歴史館。実はこの歴史館、道明寺合戦に関して解説した資料が展示してあります。大変勉強になりました。外観でスルーしなくてよかった。。
公園入口から寂れた遊園地跡を横目にテクテク小山を上ること5~6分、やっとそれらしいものが見えてきました。
これが後藤又兵衛の石碑です。
この費、実は意外と大きいんです。
隣にあるのは、後藤又兵衛を介錯した吉村武右衛門の碑です。武右衛門は又兵衛の首を打ち落とした後に、
首を深田に埋め隠し、大阪の陣後に掘り出して伊予の又兵衛の親戚の寺に届け、そこで葬られたとされています。
やはり又兵衛の碑の方が大きいですね。
しだれ桜が植えられています。
さて、最後に後藤又兵衛が最期を迎えたであろう地にある「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」を見に行きます。
黄色が碑があるところ。赤が小松山、青が玉手山公園です。
ここを訪れた方のブログ等を拝見すると、非常にわかりにくいところにあるらしいのだが、それにしても見つからない。。
ここでそこらへんにいた地元のおじさんAに聞いてみる。
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
A:「たしかそんなん、あったかも。向こうのほうやないかな?」
今来た道じゃねーかよ。。
で、戻る。
ない。
やっぱりないものはない。。
あきらめるのか、いや、ここまで来て見なかったら後悔することになる。
と、向こうから自転車に乗ったおじさん(Bにしよう)がやってきた。(頼むぜ、おじさん、知っていててくれ!)
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
B:「あ、あれね、撤去されたわ。」
f:「てっ撤去ですか??」
f:「なんでなんでしょう?」
B:「さー、わからんけどなぁ」
f:「で、どこにあったんですか?」
B:「そこ(と指差す)、あんたの後ろや」
と、いうわけで「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」の跡はこちら。
確かに他のブログの碑の写真にある後ろの木の具合は同じだし、なんだか掘り出した跡の感じもある。。
この碑は吉村武右衛門のご子孫が建てられたらしいのですが、どなたか碑のナゾをご存知の方はいらっしゃいませんか??
さて、次回の「道明寺合戦古戦場訪問記」は、小松山で又兵衛を破った徳川軍は川を渡り、河内平野へ。そこには又兵衛から遅れて到着した薄田隼人が待っていた。。
3部作の完結編「誉田合戦」をお楽しみに!
戦国時代ブログランキング参加中!「碑はどこいっちゃったんだろう?」という方、応援クリックお願いします!!
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今回は小松山の尾根沿いにある玉手山公園をご紹介します。この公園に後藤又兵衛関連の石碑があります。
公園は無料。早速、中に入ると観光地で有名な“アレ”の後藤又兵衛Ver.が迎えてくれます。
なんだか、殺風景な野外劇場。。
実はこの公園、昔は「近鉄玉手山遊園地」という名前の1908年(明治41年)に開業した、西日本で一番古い遊園地だったとのこと。昭和の中ごろまでは盛況だったのですが、入場者が減り閉園。現在は地元の柏原市の公園となっているのです。
この建物「アンティックな音楽堂」という名前で、開園当初からあるものらしいです。
いや~、寂れ方がハンパないって。。
と、
思って冷やかしに入った左側の歴史館。実はこの歴史館、道明寺合戦に関して解説した資料が展示してあります。大変勉強になりました。外観でスルーしなくてよかった。。
公園入口から寂れた遊園地跡を横目にテクテク小山を上ること5~6分、やっとそれらしいものが見えてきました。
これが後藤又兵衛の石碑です。
この費、実は意外と大きいんです。
隣にあるのは、後藤又兵衛を介錯した吉村武右衛門の碑です。武右衛門は又兵衛の首を打ち落とした後に、
首を深田に埋め隠し、大阪の陣後に掘り出して伊予の又兵衛の親戚の寺に届け、そこで葬られたとされています。
やはり又兵衛の碑の方が大きいですね。
しだれ桜が植えられています。
さて、最後に後藤又兵衛が最期を迎えたであろう地にある「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」を見に行きます。
黄色が碑があるところ。赤が小松山、青が玉手山公園です。
ここを訪れた方のブログ等を拝見すると、非常にわかりにくいところにあるらしいのだが、それにしても見つからない。。
ここでそこらへんにいた地元のおじさんAに聞いてみる。
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
A:「たしかそんなん、あったかも。向こうのほうやないかな?」
今来た道じゃねーかよ。。
で、戻る。
ない。
やっぱりないものはない。。
あきらめるのか、いや、ここまで来て見なかったら後悔することになる。
と、向こうから自転車に乗ったおじさん(Bにしよう)がやってきた。(頼むぜ、おじさん、知っていててくれ!)
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
B:「あ、あれね、撤去されたわ。」
f:「てっ撤去ですか??」
f:「なんでなんでしょう?」
B:「さー、わからんけどなぁ」
f:「で、どこにあったんですか?」
B:「そこ(と指差す)、あんたの後ろや」
と、いうわけで「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」の跡はこちら。
確かに他のブログの碑の写真にある後ろの木の具合は同じだし、なんだか掘り出した跡の感じもある。。
この碑は吉村武右衛門のご子孫が建てられたらしいのですが、どなたか碑のナゾをご存知の方はいらっしゃいませんか??
さて、次回の「道明寺合戦古戦場訪問記」は、小松山で又兵衛を破った徳川軍は川を渡り、河内平野へ。そこには又兵衛から遅れて到着した薄田隼人が待っていた。。
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大和川近くの片山テニスコート(片山庭球場:大阪府柏原市片山町541)の駐車場端に移転されています。
詳細は柏原歴史資料館のホームページ内にある「大坂夏の陣を歩く」というパンフレット(PDFファイル)をダウロードすると、それの2ページ目に載っています。
そのPDFファイルが置かれているページのリンクを貼っておきます。
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014100300159/?doc_id=2218
by 森勝永 (2016-10-13 02:54)
森勝永さま、情報ありがとうございます!!
なるほど、これは私が訪問した時には既に移転されていたのですかね??「真田丸」も又兵衛が出てきて佳境を迎えつつあるので、この一帯が観光地になるかもしれませんね。
by fuzzy (2016-10-19 21:25)