道明寺合戦古戦場訪問記3【薄田兼相の戦死の地】 [古戦場-大阪府]
道明寺合戦古戦場訪問記も最後の第3回になります!
(年を越してしまいましたが。。)
午前中に後藤又兵衛が小松山で戦死、午後になると徳川軍は石川を渡河して進軍します。大きく遅れて到着したのが、薄田隼人正兼相。兼相は近くの誉田八幡宮に陣を構えていました。
で、ここが誉田八幡宮。
碑が建っています。
そして解説板
兼相はここから出撃していきました。
「つーか、兼相って誰よ?」
そんな声が聞こえてきましたので、ここで解説を、、、したいのですが、兼相の経歴についてはあまり知られていません。一番有名なのは「岩見重太郎」と同一人物らしいということ。「岩見重太郎」は講談や歌舞伎などで知られ、天橋立で父の仇討ちを成し遂げたという人物らしく、江戸時代は非常に人気があったとのこと。
私も知りませんでした。。
兼相は小早川隆景に仕えており、その後豊臣秀吉、秀頼に仕え、大阪冬の陣が起ります。冬の陣で兼相は木津川沿いの砦(博労淵)の守将でした。この砦を突破されると、もう大阪城は目の前という重要な場所にあったのですが、徳川方の功名争いを発端に、突然攻撃されました。
豪傑で名が通っている岩見重太郎と同一人物である兼相が守将ですから、軽くあしらって、、、
あれ?
兼相が砦にいない。。
なんと、兼相はこの時おねーちゃんところに遊びに行っており、泥酔中でした。。
守将のいない砦は士気が上がらず、結局は砦を撤退。留守居の平子主膳も討ち取られるという散々な結果となりました。
兼相は味方から「役立たず」嘲られ、この夏の陣を汚名挽回の場と決めておりました。
兼相が出撃した際にはまだ、真田幸村、毛利勝永は到着していなかったため単独で徳川方との戦いとなり、多勢に無勢、討ち取られてしまいました。。
西名阪自動車道の脇の住宅街の中(すんごいわかりにくい。。)に兼相の墓があります。兼相の子孫がこの地で戦死したとして、墓を建立したそうです。
お墓の全体
お墓の隅には「大阪夏陣奮戦場」の碑があります。
兼相の戦死後、やっと幸村と勝永が到着。残存兵を収容し、幸村と勝永は翌日の決戦に臨むため撤退していきました。。
兼相のお墓は天王寺の方にもあるようです。今度は八尾、若江の古戦場も言ってみたいですね!
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(年を越してしまいましたが。。)
午前中に後藤又兵衛が小松山で戦死、午後になると徳川軍は石川を渡河して進軍します。大きく遅れて到着したのが、薄田隼人正兼相。兼相は近くの誉田八幡宮に陣を構えていました。
で、ここが誉田八幡宮。
碑が建っています。
そして解説板
兼相はここから出撃していきました。
「つーか、兼相って誰よ?」
そんな声が聞こえてきましたので、ここで解説を、、、したいのですが、兼相の経歴についてはあまり知られていません。一番有名なのは「岩見重太郎」と同一人物らしいということ。「岩見重太郎」は講談や歌舞伎などで知られ、天橋立で父の仇討ちを成し遂げたという人物らしく、江戸時代は非常に人気があったとのこと。
私も知りませんでした。。
兼相は小早川隆景に仕えており、その後豊臣秀吉、秀頼に仕え、大阪冬の陣が起ります。冬の陣で兼相は木津川沿いの砦(博労淵)の守将でした。この砦を突破されると、もう大阪城は目の前という重要な場所にあったのですが、徳川方の功名争いを発端に、突然攻撃されました。
豪傑で名が通っている岩見重太郎と同一人物である兼相が守将ですから、軽くあしらって、、、
あれ?
兼相が砦にいない。。
なんと、兼相はこの時おねーちゃんところに遊びに行っており、泥酔中でした。。
守将のいない砦は士気が上がらず、結局は砦を撤退。留守居の平子主膳も討ち取られるという散々な結果となりました。
兼相は味方から「役立たず」嘲られ、この夏の陣を汚名挽回の場と決めておりました。
兼相が出撃した際にはまだ、真田幸村、毛利勝永は到着していなかったため単独で徳川方との戦いとなり、多勢に無勢、討ち取られてしまいました。。
西名阪自動車道の脇の住宅街の中(すんごいわかりにくい。。)に兼相の墓があります。兼相の子孫がこの地で戦死したとして、墓を建立したそうです。
お墓の全体
お墓の隅には「大阪夏陣奮戦場」の碑があります。
兼相の戦死後、やっと幸村と勝永が到着。残存兵を収容し、幸村と勝永は翌日の決戦に臨むため撤退していきました。。
兼相のお墓は天王寺の方にもあるようです。今度は八尾、若江の古戦場も言ってみたいですね!
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道明寺合戦古戦場訪問記2【『後藤又兵衛奮戦の地』碑のナゾ】 [古戦場-大阪府]
おまたせしました!
道明寺合戦古戦場訪問記の第2回目となります♪
今回は小松山の尾根沿いにある玉手山公園をご紹介します。この公園に後藤又兵衛関連の石碑があります。
公園は無料。早速、中に入ると観光地で有名な“アレ”の後藤又兵衛Ver.が迎えてくれます。
なんだか、殺風景な野外劇場。。
実はこの公園、昔は「近鉄玉手山遊園地」という名前の1908年(明治41年)に開業した、西日本で一番古い遊園地だったとのこと。昭和の中ごろまでは盛況だったのですが、入場者が減り閉園。現在は地元の柏原市の公園となっているのです。
この建物「アンティックな音楽堂」という名前で、開園当初からあるものらしいです。
いや~、寂れ方がハンパないって。。
と、
思って冷やかしに入った左側の歴史館。実はこの歴史館、道明寺合戦に関して解説した資料が展示してあります。大変勉強になりました。外観でスルーしなくてよかった。。
公園入口から寂れた遊園地跡を横目にテクテク小山を上ること5~6分、やっとそれらしいものが見えてきました。
これが後藤又兵衛の石碑です。
この費、実は意外と大きいんです。
隣にあるのは、後藤又兵衛を介錯した吉村武右衛門の碑です。武右衛門は又兵衛の首を打ち落とした後に、
首を深田に埋め隠し、大阪の陣後に掘り出して伊予の又兵衛の親戚の寺に届け、そこで葬られたとされています。
やはり又兵衛の碑の方が大きいですね。
しだれ桜が植えられています。
さて、最後に後藤又兵衛が最期を迎えたであろう地にある「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」を見に行きます。
黄色が碑があるところ。赤が小松山、青が玉手山公園です。
ここを訪れた方のブログ等を拝見すると、非常にわかりにくいところにあるらしいのだが、それにしても見つからない。。
ここでそこらへんにいた地元のおじさんAに聞いてみる。
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
A:「たしかそんなん、あったかも。向こうのほうやないかな?」
今来た道じゃねーかよ。。
で、戻る。
ない。
やっぱりないものはない。。
あきらめるのか、いや、ここまで来て見なかったら後悔することになる。
と、向こうから自転車に乗ったおじさん(Bにしよう)がやってきた。(頼むぜ、おじさん、知っていててくれ!)
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
B:「あ、あれね、撤去されたわ。」
f:「てっ撤去ですか??」
f:「なんでなんでしょう?」
B:「さー、わからんけどなぁ」
f:「で、どこにあったんですか?」
B:「そこ(と指差す)、あんたの後ろや」
と、いうわけで「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」の跡はこちら。
確かに他のブログの碑の写真にある後ろの木の具合は同じだし、なんだか掘り出した跡の感じもある。。
この碑は吉村武右衛門のご子孫が建てられたらしいのですが、どなたか碑のナゾをご存知の方はいらっしゃいませんか??
さて、次回の「道明寺合戦古戦場訪問記」は、小松山で又兵衛を破った徳川軍は川を渡り、河内平野へ。そこには又兵衛から遅れて到着した薄田隼人が待っていた。。
3部作の完結編「誉田合戦」をお楽しみに!
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道明寺合戦古戦場訪問記の第2回目となります♪
今回は小松山の尾根沿いにある玉手山公園をご紹介します。この公園に後藤又兵衛関連の石碑があります。
公園は無料。早速、中に入ると観光地で有名な“アレ”の後藤又兵衛Ver.が迎えてくれます。
なんだか、殺風景な野外劇場。。
実はこの公園、昔は「近鉄玉手山遊園地」という名前の1908年(明治41年)に開業した、西日本で一番古い遊園地だったとのこと。昭和の中ごろまでは盛況だったのですが、入場者が減り閉園。現在は地元の柏原市の公園となっているのです。
この建物「アンティックな音楽堂」という名前で、開園当初からあるものらしいです。
いや~、寂れ方がハンパないって。。
と、
思って冷やかしに入った左側の歴史館。実はこの歴史館、道明寺合戦に関して解説した資料が展示してあります。大変勉強になりました。外観でスルーしなくてよかった。。
公園入口から寂れた遊園地跡を横目にテクテク小山を上ること5~6分、やっとそれらしいものが見えてきました。
これが後藤又兵衛の石碑です。
この費、実は意外と大きいんです。
隣にあるのは、後藤又兵衛を介錯した吉村武右衛門の碑です。武右衛門は又兵衛の首を打ち落とした後に、
首を深田に埋め隠し、大阪の陣後に掘り出して伊予の又兵衛の親戚の寺に届け、そこで葬られたとされています。
やはり又兵衛の碑の方が大きいですね。
しだれ桜が植えられています。
さて、最後に後藤又兵衛が最期を迎えたであろう地にある「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」を見に行きます。
黄色が碑があるところ。赤が小松山、青が玉手山公園です。
ここを訪れた方のブログ等を拝見すると、非常にわかりにくいところにあるらしいのだが、それにしても見つからない。。
ここでそこらへんにいた地元のおじさんAに聞いてみる。
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
A:「たしかそんなん、あったかも。向こうのほうやないかな?」
今来た道じゃねーかよ。。
で、戻る。
ない。
やっぱりないものはない。。
あきらめるのか、いや、ここまで来て見なかったら後悔することになる。
と、向こうから自転車に乗ったおじさん(Bにしよう)がやってきた。(頼むぜ、おじさん、知っていててくれ!)
f:「後藤又兵衛の碑がここらへんにあると聞いたんですが。。」
B:「あ、あれね、撤去されたわ。」
f:「てっ撤去ですか??」
f:「なんでなんでしょう?」
B:「さー、わからんけどなぁ」
f:「で、どこにあったんですか?」
B:「そこ(と指差す)、あんたの後ろや」
と、いうわけで「後藤又兵衛基次奮戦乃地碑」の跡はこちら。
確かに他のブログの碑の写真にある後ろの木の具合は同じだし、なんだか掘り出した跡の感じもある。。
この碑は吉村武右衛門のご子孫が建てられたらしいのですが、どなたか碑のナゾをご存知の方はいらっしゃいませんか??
さて、次回の「道明寺合戦古戦場訪問記」は、小松山で又兵衛を破った徳川軍は川を渡り、河内平野へ。そこには又兵衛から遅れて到着した薄田隼人が待っていた。。
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道明寺合戦古戦場訪問記①【又兵衛はなぜ幸村を待てなかったのか?】 [古戦場-大阪府]
さて、今回はいつものお城訪問記から趣向を変えて、古戦場の訪問記を紹介したいと思います♪
第一回目の古戦場は、大阪夏の陣における激戦となった道明寺の戦いを紹介します。
それでは、道明寺の戦いをお勉強しながら訪問記を進めていきましょう。
冬の陣の後、堀を埋められた大阪方は野戦を展開することになり、後藤又兵衛の主張で大和方面から進軍してくる徳川軍に対して、河内平野の入口の国分村で徳川軍を迎え撃つことが決定しました。
で、この国分村がどういうところかgoogle mapで見てみると、、
青が後藤又兵衛の進軍路、赤が徳川方の進軍路。赤丸は激戦地となった小松山になります。
川(大和川)と山の間の隘路の先が国分村になります。ここなら徳川方の大軍と戦うには都合のよい場所のようです。さすが又兵衛♪
大和方面の写真。この方向から徳川軍は攻めて来ました。
後藤又兵衛は真田幸村、毛利勝永と共に大阪城を出て、平野で一泊。次の日に道明寺で合流して戦うことになりました。翌朝道明寺に到着した後藤又兵衛に2つの誤算が発生しました。この日は濃霧が発生しており、幸村達の軍の到着が遅れたこと。そして隘路の先の国分村で徳川軍迎え撃つ予定が、すでに徳川軍が国分村まで進軍していました。
又兵衛の兵は2,800。対する徳川軍は水野勝成を先鋒とした3,800に伊達政宗10,000ほか大軍が展開していました。明らかに又兵衛の兵数は少ないのですが、又兵衛を幸村達を待たずに進軍し、小松山を占拠しました。
なぜ幸村を待てなかったのか?
もう一度google mapで小松山の位置を確認してください。
この川と山の間を突破されると大軍が一挙に河内平野に展開することになり、兵数の少ない大阪方は一気に不利となってしまいます。又兵衛は自分を犠牲にしてでもこの隘路で大軍を食い止める以外には豊臣方が有利になることはないと考え、隘路を見下ろせる小松山に陣取ったのではないでしょうか?もちろんこの戦いで又兵衛は死ぬ気でいたと思いますが、無策で徳川軍と戦ったわけではないようです。
そんな小松山はがどういうところなのかをご紹介したいと思います。
大阪阿部野橋から近鉄で30分くらいでしょうか?小松山までの玄関口である道明寺駅に到着します。
小さな駅ですが、駅前はなにやら盛り上がっている様子。。
又兵衛と同じく、石川を渡ります。赤丸が小松山です。
川を渡り15分ほど歩くと、見えてきました!小松山です!!
なんだかもっこりした山ですが、、わかります?小松山って玉手山一号墳という円墳なんです。この地域に詳しい方はご存知だと思いますが、河内平野は古墳がとても多いのです。この小松山の隣も2つほど尾根伝いに古墳があり、尾根の端っこの部分が小松山だったのです。
小松山の隣の古墳(玉手山2号墳)。古墳(お墓)の上に現代のお墓が建つというなんとも不思議な光景。。
小松山の頂上には後藤軍に真っ先に攻め上ってきて戦死した奥田忠次らの墓があります。
小松山の頂上からの風景。お墓が2号墳。向こうに見える山も古墳(3号墳)です。
小松山に陣取っていた又兵衛は多勢に無勢。とうとう支えきれなくなり、小松山から下山。最後の突撃を試みましたが、銃で撃たれ戦死しました。
小松山の正面にある古戦場の碑
なんで又兵衛が単独行動をしたのかずっと悩んでいたのですが、小松山の地形を実際に見て謎が解けました。
次回は近くの玉手山公園にある又兵衛関連の碑と道明寺合戦後半戦をお届けします。
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第一回目の古戦場は、大阪夏の陣における激戦となった道明寺の戦いを紹介します。
それでは、道明寺の戦いをお勉強しながら訪問記を進めていきましょう。
冬の陣の後、堀を埋められた大阪方は野戦を展開することになり、後藤又兵衛の主張で大和方面から進軍してくる徳川軍に対して、河内平野の入口の国分村で徳川軍を迎え撃つことが決定しました。
で、この国分村がどういうところかgoogle mapで見てみると、、
青が後藤又兵衛の進軍路、赤が徳川方の進軍路。赤丸は激戦地となった小松山になります。
川(大和川)と山の間の隘路の先が国分村になります。ここなら徳川方の大軍と戦うには都合のよい場所のようです。さすが又兵衛♪
大和方面の写真。この方向から徳川軍は攻めて来ました。
後藤又兵衛は真田幸村、毛利勝永と共に大阪城を出て、平野で一泊。次の日に道明寺で合流して戦うことになりました。翌朝道明寺に到着した後藤又兵衛に2つの誤算が発生しました。この日は濃霧が発生しており、幸村達の軍の到着が遅れたこと。そして隘路の先の国分村で徳川軍迎え撃つ予定が、すでに徳川軍が国分村まで進軍していました。
又兵衛の兵は2,800。対する徳川軍は水野勝成を先鋒とした3,800に伊達政宗10,000ほか大軍が展開していました。明らかに又兵衛の兵数は少ないのですが、又兵衛を幸村達を待たずに進軍し、小松山を占拠しました。
なぜ幸村を待てなかったのか?
もう一度google mapで小松山の位置を確認してください。
この川と山の間を突破されると大軍が一挙に河内平野に展開することになり、兵数の少ない大阪方は一気に不利となってしまいます。又兵衛は自分を犠牲にしてでもこの隘路で大軍を食い止める以外には豊臣方が有利になることはないと考え、隘路を見下ろせる小松山に陣取ったのではないでしょうか?もちろんこの戦いで又兵衛は死ぬ気でいたと思いますが、無策で徳川軍と戦ったわけではないようです。
そんな小松山はがどういうところなのかをご紹介したいと思います。
大阪阿部野橋から近鉄で30分くらいでしょうか?小松山までの玄関口である道明寺駅に到着します。
小さな駅ですが、駅前はなにやら盛り上がっている様子。。
又兵衛と同じく、石川を渡ります。赤丸が小松山です。
川を渡り15分ほど歩くと、見えてきました!小松山です!!
なんだかもっこりした山ですが、、わかります?小松山って玉手山一号墳という円墳なんです。この地域に詳しい方はご存知だと思いますが、河内平野は古墳がとても多いのです。この小松山の隣も2つほど尾根伝いに古墳があり、尾根の端っこの部分が小松山だったのです。
小松山の隣の古墳(玉手山2号墳)。古墳(お墓)の上に現代のお墓が建つというなんとも不思議な光景。。
小松山の頂上には後藤軍に真っ先に攻め上ってきて戦死した奥田忠次らの墓があります。
小松山の頂上からの風景。お墓が2号墳。向こうに見える山も古墳(3号墳)です。
小松山に陣取っていた又兵衛は多勢に無勢。とうとう支えきれなくなり、小松山から下山。最後の突撃を試みましたが、銃で撃たれ戦死しました。
小松山の正面にある古戦場の碑
なんで又兵衛が単独行動をしたのかずっと悩んでいたのですが、小松山の地形を実際に見て謎が解けました。
次回は近くの玉手山公園にある又兵衛関連の碑と道明寺合戦後半戦をお届けします。
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