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無双の花【立花宗茂と真田幸村の生き方の違い】 [立花宗茂]

またもや更新が、、、失礼しました。

今回は直木賞作家 葉室麟氏の立花宗茂を題材とした「無双の花」を紹介します♪
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立花宗茂については5年前(!)にこのブログに登場してもらってます。
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/2009-08-20

宗茂の人生は戦国武将の中でもトップレベルの波乱万丈なんですが、大きく分けると、秀吉に「西国一の武将」とたたえられた関が原の戦い"以前”と浪人から元の大名に復帰する"以後”に分けられます。
で、この小説は関が原の戦い後からスタートしているんです。

ここがポイント。私も宗茂の小説を書くなら関が原の戦いの後のことを書くと思います。

で、浪人中に真田幸村や長宗我部盛親と出会います。同じ関が原の戦いで負けた同志として、打倒家康の仲間に加えようとしますが、宗茂は大名に復帰し旧領の筑後柳川を回復するため家康に臣従しているので、これを固辞します。西国一の勇将としての知名度がある宗茂とお父さんは有名だけど、本人たちは実績のない二人。特に幸村はお兄ちゃんの信幸が徳川方だったので、大名として真田家は存在しており、自分の名を上げるには豊臣方につくしかないと考えています。同じ関が原の負け組の武将と生き方を対比させることによって、宗茂の選んだ生き方に興味が惹かれるようになっています。まぁ、宗茂は猛将立花道雪の養子という立場もあり、そう簡単には自分だけの生き方だけではなく立花家をどうするかを考えなければならなかったと思いますが。。

そんなこんなで旧領の筑後柳川の領地を回復!関ヶ原の戦いで大名から浪人まで落ちぶれたのに、元に戻れた武将はほかにはいないと思います。幸村や後藤又兵衛のような、自分の生き方を曲げなかった武将に光が当たりますが、宗茂のような生き方をした武将に光が当たってもいいと思います。大阪の陣の後も徳川秀忠、家光をサポートする立場までになっているのですから。。

ちなみに秀吉に讃えられた東の勇将は本多忠勝です。


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歴史街道9月号【立花宗茂って島原の乱にも出陣していたの知ってました?】 [立花宗茂]

今月の歴史街道は豊臣秀吉から「その豪勇、鎮西一」と誉められた立花宗茂の特集です!
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/

fuzzyも男気溢れる宗茂は好きな武将の一人です。宗茂のお父さんは立花道雪なのですが、これは養父です。実のお父さんは高橋紹運です。道雪と紹運の二人は斜陽化する大友家を支えた忠臣だったのですが、道雪がどうしても宗茂(当時は統虎)を養子に欲しいと懇願したため、紹運は宗茂を道雪に養子に出しました。

その後、大友家は島津の猛攻の前に道雪は陣中で死に、紹運は秀吉の援軍が来るまでの時間稼ぎをして死にました。紹運への援軍が出せなかった宗茂は孤軍奮闘により立花城を死守。その後、秀吉の援軍が来た宗茂は撤退する島津軍を追撃して痛撃を与え、その事により秀吉に誉められたんですね。

秀吉の元で筑後柳川13万2000石の独立大名となった宗茂は秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは秀吉への恩へ報いるべく西軍方につき、京極高次の守る大津城を攻めます。ところが高次を降伏させ開城させた日に西軍は関ヶ原で負けてしまいました。。しか~し、そこから宗茂の関ヶ原はまだまだ続きます。大阪城に戻った宗茂は城にいた西軍総帥毛利輝元や増田長盛に籠城を提案したが、彼らは乗り気ではなく海路柳川に戻ってきます。柳川城には鍋島直茂、黒田如水、加藤清正が攻めてきたため、やむなく開城し改易された宗茂はプー太郎となってしまいました。。

宗茂のすごいのはここからなんですねー。

宗茂は突然徳川家康に呼び出され、幕臣としてとり立てられました。その後奥州棚倉で大名として復帰し、大阪の陣で徳川秀忠をサポートした功により元の筑後柳川の旧領を回復しました。改易された西軍の大名で旧領を回復したのは宗茂ただ一人のようです。

まだまだ、宗茂は忙しいです。

宗茂は3代将軍家光からも相談役として重宝され、なんと、島原の乱に出陣要請されたんです。関ヶ原以前からの戦いをを経験していて、島原の乱に出陣したのは宗茂と水野勝成くらいだけだと思うのですが。。最後の戦国武将といってもいいと思います。

残念なのは、宗茂はどの戦いでも兵数が少ないローカルの小大名であった事。ほとんどの戦いの兵は千から千五百くらいだったんですね。その兵数で何十倍もの兵数を相手に戦って負けなかったのはすごいと思います。さすが秀吉から東の本多忠勝、西の宗茂と言われただけのことはあります。

そんな、宗茂も頭が上がらなかったのが奥さんの誾千代。お父さんの道雪に「男」として育てられた事もあって二人は仲がよくなかったようです(笑)

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