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歴史街道11月号4【長宗我部盛親と大坂の陣】 [長宗我部盛親]

さて、長宗我部家の歴史もとうとう4回目になりました。

京都で蟄居を命じられた長宗我部盛親は、「ちょうそかべ」の名を名乗ることが許されず、大岩祐夢と名乗りました。しかも生計を立てるためになんと寺小屋で先生をしていたんです。教育に力を入れていた戦国武将はいたかもしれませんが、さすがに自分で先生をやっていた戦国武将は盛親一人でしょうねぇ。

そんな盛親に14年の月日が流れます。。

盛親は豊臣方の誘いに乗り、旧臣とともに大坂城に入城しました。真田幸村や後藤又兵衛等、有名な武将が大坂城に入場しますが、盛親は唯一の一国(土佐)の国主だったんですね。

冬の陣で盛親は八町目口を守り、藤堂高虎、井伊直孝と戦ってこれを退けました。まずまずの戦いだったといえましょう。

そして夏の陣。。

盛親は5千の兵を率いて、若きイケメン武将木村重成と共に八尾、若江方面に向かいます。盛親と戦ったのは冬の陣と同様、藤堂高虎。緒戦は藤堂隊が優勢に進んでいましたが、盛親はあわてず堤防に隠れて引きつけ一気に藤堂隊に突っ込み、藤堂隊はこのブログでも紹介した大谷吉継の首のありかを家康に言わなかった高虎の甥である高刑をはじめとして名だたる武将が討たれ、壊滅状態に陥りました。盛親、快勝です!!関ヶ原で見せられなかった土佐兵の強さを見せ付けることができました。いや~よかったよかった。

残念ながら木村重成が井伊直孝に敗れて、長宗我部隊に攻め込んできたため、それ以上攻めることができず大坂城への撤退を余儀なくされましたが、夏の陣で自分の持ち場で快勝した武将は盛親一人だったのではないでしょうか?

翌日の大坂城の最後の日に盛親は落城後逃亡しましたが、捕らえられ京都の六条河原で斬首されました。。
「土佐物語」は盛親の逸話の残されています。

捕らえられた盛親に対して、京都所司代の板倉伊豆守が盛親にこう聞きます。
「大阪方の敗戦の責任は誰?」
盛親はこう答えました。
「藤堂高虎を完全に打ち破れなかった俺のせい。」

う~ん、潔いですね。

こうして長宗我部家は完全に滅亡してしまいました。。

長宗我部シリーズはこれで完結なのですが、次回は番外編として八尾の戦いで究極の人生の選択に陥った武将を紹介します。

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歴史街道11月号③【長宗我部盛親と関ヶ原】 [長宗我部盛親]

昨日の続きです。

信親には3人の弟がいました。次男の親和、三男の親忠そして四男の千熊丸(のちの盛親)です。次男と三男はそれぞれ香川家、津野家に養子に出ていましたが、まぁ、普通は長男がいなくなったら、次男あっても三男が継ぐと思うのですが、なんと元親は可愛がっていた四男の千熊丸を後継者に指名し、信親の娘を娶らすことにしました。競馬の世界でいうと「インブリード」ですよね?さすがに家臣で反対する者も出てきたのですが、元親は反対した家臣達をすべて誅伐しました。もぅ、メチャクチャです。。しかも次男の親和は秀吉から長宗我部家相続の朱印状も出ており、自分がてっきり継ぐものだと思っていたので、ものすごい落胆をして死んでしまいます。。

ちなみに盛親の「盛」は五奉行の一人、増田長盛に烏帽子親になってもらい「盛」の字をもらったんですね。

そして秀吉が死んでしまいます。徳川家康と石田三成が対立し、きな臭くなってきた重要な時に元親が病気にかかってしまい、翌年元親も伏見で死んでしまいます。

その時まだ25才と若い盛親。この重要な時に元親の遺骨を土佐に持って帰り菩提を弔っていたため、中央の動きがどうなっているか情報が入ってこない状態になってしまったんですね。

そして、関ヶ原の戦いがおきます。盛親はよくわからないけど、とりあえず家康側につこうと使いを出したのですが、途中西軍方の関所に追い返され、よくわからないけど西軍側につくことになりました。盛親は土佐から6千6百の兵を率いて出兵。毛利軍と共に行動し、関ヶ原では南宮山で毛利軍の後ろに陣取りました。よくわからないけど、毛利軍は動かず、前方の戦いの状況がよくわからない中で、敵中突破して逃げてくる島津軍に初めて石田方が負けたことを聞かされよくわからないけど、土佐に逃げ帰ります。

戦後処理では、徳川家と長宗我部家は小牧・長久手の時に同盟を組んでいたり、当初家康側につく事を決めていたりという理由で長宗我部家を取り潰すつもりはなかったんです。

と・こ・ろ・が、、、、

三男の親忠は以前、家康の信任の厚い藤堂高虎のもとに人質にいっていた関係で長宗我部家の本領安堵のために動いていたのですが、これを盛親の家臣が「親忠が長宗我部家を乗っ取ろうとしている」と讒言し、盛親はお兄ちゃんの親忠を殺しちゃうんですね。。激怒した家康は長宗我部家の土佐一国を召し上げ、長宗我部家は取り潰し盛親は京都で謹慎生活を命じられました。。

このまま終わったら盛親は所領を無くしたただの田舎のおぼっちゃん大名で名前を残すところだったんですが、盛親の名前が歴史に残る機会が生まれました。

次で最後です(おそらく。。)


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