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歴史街道 8月号 [明智光秀]

この前歴史街道についてこのブログで書いたら、もう8月号が出ています。。
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/

8月号では明智光秀の3つの謎について特集しています。
①信長に仕えるまでの半生
②なぜ本能寺の変を起したのか?
③天海は本当に明智光秀なのか?

確かに謎に包まれた武将ですよね。
今回初めて知ったのは、光秀が斎藤義龍に攻められて落ち延びてから、朝倉義景に客分として召抱えられるまでに間、全国放浪をしていた際に大友宗麟が築いた臼杵城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E
の縄張りをしたと地元では言われているらしいです。

「明智軍記」という江戸時代に書かれた書物には、光秀の諸国遍歴のルートが書かれており、確かに豊後にも行っているようです。
でもこの書物は作者不詳なので、どうもウソ臭い。。

さて、光秀の信長を討った動機ってなんだと思いますか?
最近では朝廷や足利義昭の黒幕説なんかが出てきていますが、もともとは家康の接待役の失敗による信長からの叱責や母親を人質に出したのにもかかわらず、降伏した波多野兄弟を信長が殺してしまったため、母親を殺されたことに対する怨恨説が主流ですね。

私は「先行き不安説」を挙げます。
1つ目は1580年に譜代の家臣である佐久間信盛親子や林通勝の突然のリストラ
2つ目は四国征伐の開始
実はあまりメジャーな話ではないのですが、土佐の長宗我部元親と明智光秀は深からぬ縁があるのです。元親の妻は明智光秀の家臣、斎藤利三の妹であり、光秀が元親と信長の交渉役をしていたのです。(元親の長男、信親は烏帽子親である信長の「信」の字ですよね)。当初、元親と信長は友好関係だったのですが、元親が四国で勢力を増していったため、四国を征伐することに路線変更しました。困ったのは重臣の妹婿を攻めることになった光秀ですが、追い討ちをかけるように四国方面軍指令官を解任されてしまいます。

仕事がなくなる→譜代の家臣でさえ役に立たなければリストラされてしまう→俺のこの先どうなるのだろう

これが理由ではないか、と。。

各方面軍が動けない状況と京都にいる信長は少人数、成功した場合は姻戚関係の細川、筒井と元親それに顔が利く朝廷が味方してくれるという読みがあったのではないかというのが私の説です。読みは崩れましたが。。

いかがでしょうか?


天海説はまた今度~


タグ:明智光秀
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