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本能寺の変 431年目の真実【信長が本能寺にいた本当の理由】 [明智光秀]

なんと、何年か振りに2週連続のブログ更新!たまにはがんばってます!!

さて、6月の終わりにこんなニュースがYahoo!のトップページに出ていたのを覚えていらっしゃいますか?

msn産経ニュース
謎に迫る新史料 光秀、四国攻め回避で決起か 林原美術館が明らかに
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140623/wlf14062321240026-n1.htm

 明智光秀が主君の織田信長を討った「本能寺の変」について、林原美術館(岡山市北区)が所蔵する「石谷家(いしがいけ)文書」に土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が光秀の腹心に宛てて四国攻めに苦悩する書状があったことが23日、明らかになった。変の要因には諸説あるが、長宗我部との関係を重んじた光秀が四国攻めを回避するため決起した可能性を示す史料として大きな論議を呼びそうだ。
(続きはWebで。。)

謎が謎を呼ぶ本能寺の変。信長の四国攻めが理由で明智光秀が謀反を起こした可能性が上がったという生地でした。fuzzyも四国説が有力ではないかと以前から考えていましたが、、、

歴史街道 8月号
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300274019-1
歴史街道5月号【本能寺の変と斎藤利三の関係】
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/2012-05-05

未だに本能寺の変は謎に包まれています。

そんな中で本日ご紹介する本は明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」です♪
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著者の名前を見てのご想像通り、明智氏は明智残党狩りの手を逃れた光秀の子・於寉丸(おづるまる)の子孫
とのことです。

「ふむふむ、出版社が光秀の子孫を引っ張り出して先祖の汚名を晴らすって感じの本??」

って思いますよね。だってこの方の経歴、「慶應義塾大学大学院→大手電機メーカーに入社。」
サラリーマンですもん。(優秀な方というのは学歴みてわかりますが)

ところが、すんごーい調査されてるんですよ。読み手がびっくりするくらいに。。明智さん、軽んじてごめんなさい!

明智さんは、勝者(秀吉?家康??)が自分の都合にいいように歴史書を変えており、現在ある光秀の人物像や謀反理由はずっと後の江戸時代になって作られた軍記物やそれを題材にした小説によって形成されているとして、本能寺の変当時の武将や公家、祐筆の残した日記から歴史を捜査したのがこの本になっています。

今までの本能寺の変の謎は「なぜ光秀が謀反を起こしたのか?」という点にフォーカスしており、中国攻めに向かう途中の本能寺にいた信長の動きには誰も触れていなかったのですが、もし信長がある意図を持ってわざと少人数で本能寺に宿泊していたとしたら、話は変わってきません??

読みたくなっちゃいました?

ネタバレになってしまうので、このブログでは中身を書きませんが、この”信長の意図”は新鮮ですし、当時の日記に書かれていた内容からも説得力があります。後半やや強引かなっと思うところもありましたが、基本的には資料に沿った推測で楽しく読むことができます。



信じるか信じないはあなた次第です。



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歴史街道 8月号 [明智光秀]

この前歴史街道についてこのブログで書いたら、もう8月号が出ています。。
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/

8月号では明智光秀の3つの謎について特集しています。
①信長に仕えるまでの半生
②なぜ本能寺の変を起したのか?
③天海は本当に明智光秀なのか?

確かに謎に包まれた武将ですよね。
今回初めて知ったのは、光秀が斎藤義龍に攻められて落ち延びてから、朝倉義景に客分として召抱えられるまでに間、全国放浪をしていた際に大友宗麟が築いた臼杵城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E
の縄張りをしたと地元では言われているらしいです。

「明智軍記」という江戸時代に書かれた書物には、光秀の諸国遍歴のルートが書かれており、確かに豊後にも行っているようです。
でもこの書物は作者不詳なので、どうもウソ臭い。。

さて、光秀の信長を討った動機ってなんだと思いますか?
最近では朝廷や足利義昭の黒幕説なんかが出てきていますが、もともとは家康の接待役の失敗による信長からの叱責や母親を人質に出したのにもかかわらず、降伏した波多野兄弟を信長が殺してしまったため、母親を殺されたことに対する怨恨説が主流ですね。

私は「先行き不安説」を挙げます。
1つ目は1580年に譜代の家臣である佐久間信盛親子や林通勝の突然のリストラ
2つ目は四国征伐の開始
実はあまりメジャーな話ではないのですが、土佐の長宗我部元親と明智光秀は深からぬ縁があるのです。元親の妻は明智光秀の家臣、斎藤利三の妹であり、光秀が元親と信長の交渉役をしていたのです。(元親の長男、信親は烏帽子親である信長の「信」の字ですよね)。当初、元親と信長は友好関係だったのですが、元親が四国で勢力を増していったため、四国を征伐することに路線変更しました。困ったのは重臣の妹婿を攻めることになった光秀ですが、追い討ちをかけるように四国方面軍指令官を解任されてしまいます。

仕事がなくなる→譜代の家臣でさえ役に立たなければリストラされてしまう→俺のこの先どうなるのだろう

これが理由ではないか、と。。

各方面軍が動けない状況と京都にいる信長は少人数、成功した場合は姻戚関係の細川、筒井と元親それに顔が利く朝廷が味方してくれるという読みがあったのではないかというのが私の説です。読みは崩れましたが。。

いかがでしょうか?


天海説はまた今度~


タグ:明智光秀
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