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出雲の鷹(1)【山中鹿之助メジャー化計画!】 [山中鹿之助]

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」

普通そんな事を好き好んで祈る人はいないと思うのですが、その祈りが通じたのか(?)何度も何度も苦難が襲った武将、、お待たせしました~fuzzyも好きな武将の一人である山中鹿之助を今日は紹介します!!!

鹿之助が主役の小説はそんなにありません。その中で南條範夫の「出雲の鷹」は上下巻に分かれていてなかなかの長編でかなり読み応えはありますので、鹿之助の人生を知るにはオススメです。

さてこの鹿之助は山陰の尼子家の家臣でした。尼子家は一時期山陰山陽八カ国の太守だったですが、鹿之助が尼子家の家臣としてデビューした頃には毛利元就に月山富田城は攻められていて、とうとう永禄9年(1566年)に当主の尼子義久が降伏したため、鹿之助は城から出ました。

「出雲の鷹」では義久は毛利の配下として別の土地の所領を与えられるという条件で降伏したのに、だまされて幽閉されてしまった義久を鹿之助は助け出しに向かいます。ところが、、義久は尼子家再興など考えていなく、しかたなく別の方法での尼子家の再興を考えます。

尼子の旧家臣団は京都に集まって暮らしていました。すると、尼子の血を引いた者が京都で僧侶になっていることを知ります。この僧侶は尼子誠久の五男でした。この誠久とそのお父さんの国久は「新宮党」といわれた尼子家一の武功を持っていた分家(国久は本家の頭領晴久のおじいちゃん経久の次男。晴久のお父さん(政久)は若いときに戦死。)だったのですが、晴久と新宮党は仲が悪く、そこに毛利元就が謀略を仕掛けた結果、晴久は新宮党を攻め、
国久、誠久とその他の子供達は殺されました。そんな中を脱出して京都で僧侶になっているというのです。

鹿之助はこの僧侶を還俗させて勝久(あー、○久が多いなぁ、、)と名乗らせ尼子再興の旗揚げをします。

鹿之助達は山陰の海賊、奈佐日本之介の支援を得て出雲に入国すると、各地にいた旧尼子家臣が集まってきて勢力は大きくなり、一気に尼子家の本城であった月山富田城を攻めました。ところが、、毛利軍は300人しか城にいませんでしたが月山富田城を落とすことができませんでした。。そのうち九州に攻め入っていた毛利の本軍が出雲に大軍で攻めてきて、尼子家は離反が相次ぎ、最後は鹿之助も捕らえられてしまいました。。。

さて、鹿之助はどうなってしまうのか?次回に続きます。

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fuzzy

山中鹿之助が主人公の本は読んでいません、中国地方の覇権争い、毛利氏・尼子氏・陶氏に関して、今まで余り興味を抱いていませんんでした、最近鎌倉時代後期を集中して本を読んでいます、毛利氏絡みの本も読んでみます。
by fuzzy (2009-11-23 15:33) 

fuzzy

fuzzyさん、いつもコメントありがとうございます。中国地方における尼子、大内の凋落と毛利の隆盛は結構面白いです。そう考えると毛利元就は傑出した戦国武将と言えると思いますねー。
by fuzzy (2009-11-24 01:13) 

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