躑躅ヶ崎館訪問記(その2)【西曲輪拡張のナゾ】 [城-山梨県]
その1で紹介した中曲輪の西にあるのが西曲輪です。
西曲輪の北側には枡型虎口が発掘整備されています。
動画でどうぞ♪
なんだか簡易的な解説板によると西曲輪は信玄の長男義信の結婚に合わせて増築されたらしいのですが、ご存知の通り義信は切腹させられた後はどのようにつかわれていたのか?いやいや西曲輪は勝頼の時代になってできたものではないか?とちょっとまだわかっていないことがあります。
西曲輪南側の水堀。
武田時代の作られた曲輪は主郭部分と中・東曲輪と西曲輪のようです。北側の隠居曲輪
や南側の梅翁曲輪は武田家滅亡後に増築されたようです。
では躑躅ヶ崎館の歴史の紹介~♪
躑躅ヶ崎館は信玄のお父さんの信虎がこの地に本郭を築き、信玄、勝頼とここを本拠にしましが、勝頼の代に織田信長からの侵略を受け、新府城に移転しました。武田家が滅亡後、河尻秀隆が甲斐を統治しましたが、間もなく本能寺の変が起きた事により甲斐は大混乱。秀隆はその混乱の中で殺されてしまいました。。その後、甲斐は徳川家のものとなり、平岩親吉が躑躅ヶ崎館を拡張しましたが、同時進行で甲府城を築城し、1590年(天正18年)の完成後に躑躅ヶ崎館が使用されなくなったとされています。
今回時間がなく要害山城と甲府城がいけませんでしたが、躑躅ヶ崎館の南側の甲府駅までの通りには武田二十四将をはじめとする家臣団の屋敷跡もあり、今度はゆっくり訪問したいと思います。
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西曲輪の北側には枡型虎口が発掘整備されています。
動画でどうぞ♪
なんだか簡易的な解説板によると西曲輪は信玄の長男義信の結婚に合わせて増築されたらしいのですが、ご存知の通り義信は切腹させられた後はどのようにつかわれていたのか?いやいや西曲輪は勝頼の時代になってできたものではないか?とちょっとまだわかっていないことがあります。
西曲輪南側の水堀。
武田時代の作られた曲輪は主郭部分と中・東曲輪と西曲輪のようです。北側の隠居曲輪
や南側の梅翁曲輪は武田家滅亡後に増築されたようです。
では躑躅ヶ崎館の歴史の紹介~♪
躑躅ヶ崎館は信玄のお父さんの信虎がこの地に本郭を築き、信玄、勝頼とここを本拠にしましが、勝頼の代に織田信長からの侵略を受け、新府城に移転しました。武田家が滅亡後、河尻秀隆が甲斐を統治しましたが、間もなく本能寺の変が起きた事により甲斐は大混乱。秀隆はその混乱の中で殺されてしまいました。。その後、甲斐は徳川家のものとなり、平岩親吉が躑躅ヶ崎館を拡張しましたが、同時進行で甲府城を築城し、1590年(天正18年)の完成後に躑躅ヶ崎館が使用されなくなったとされています。
今回時間がなく要害山城と甲府城がいけませんでしたが、躑躅ヶ崎館の南側の甲府駅までの通りには武田二十四将をはじめとする家臣団の屋敷跡もあり、今度はゆっくり訪問したいと思います。
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躑躅ヶ崎館訪問記(その1)【信玄の城に天守閣が!?】 [城-山梨県]
いつも「戦国ネタブログ」をご覧いただいている皆様、fuzzyでございます。
大変ご無沙汰しております。。
久々のブログは城訪問記から再スタートです!
今回は武田信玄の居城(館?)として名高い、山梨県は躑躅ヶ崎館の訪問記です!!
甲府駅から“武田通り”を真っ直ぐ北へ行くと、なんだか立派なものが見えてきました!
さすが、信玄の城、立派な大手門ですね!!
と
言いたいところですが、実はこの場所は大正時代になって躑躅ヶ崎館の主郭部に武田神社ができた際に作られた入口で、戦国時代にはここに入口はありませんでした。なんだかなぁ。。
ニセ大手門の横にある解説板
では、当時の大手門はというと、東側にあったんです。
動画でも見てみましょう♪
内側からも見てみましょう♪♪
なかなか高い土塁と堀ですが、大手門入るといきなり主郭というのはいくら「人は城、人は石垣、人は堀」の最強武田軍団とはいえどもちょっと防御力に不安な点がありそうですが。。
そんな大手門の前には馬出があったようで、発掘調査により三日月堀の跡が見つかっているようです。
武田家が滅亡した後にこの堀は埋められて土塁が作られたとのことで復元されています。
この復元は知らなかった。。
動画でもどうぞ!
階段があることから、塀か多聞櫓的なものがあったと推測されますね。
その向こうにも高い土塁が築かれてますので、武田家が滅亡後にこの地に入った徳川家によって大手門前の防御が手薄と考えられたんでしょう。
その先にも土塁が築かれています。
さて本郭内に移動します。現在武田神社のある本郭は信玄のお父さんの信虎がこの地に本拠を移した際に築いたもので、その後城内は信玄らによって拡張されていきました。
ん?
想像図の左上に「天主」の文字が。。なんでも武田家以降のこの城には天守閣が築かれていたそうです。
超見たい
神社の方に天主台の場所を尋ねるとなんでも神社の裏側にあるため、一般には公開していないそうです。残念。。。。
この奥が天主台(のハズ)
その1では本郭と大手門中心に紹介しましたが、その2ではその他の郭と歴史を紹介します。
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今回は武田信玄の居城(館?)として名高い、山梨県は躑躅ヶ崎館の訪問記です!!
甲府駅から“武田通り”を真っ直ぐ北へ行くと、なんだか立派なものが見えてきました!
さすが、信玄の城、立派な大手門ですね!!
と
言いたいところですが、実はこの場所は大正時代になって躑躅ヶ崎館の主郭部に武田神社ができた際に作られた入口で、戦国時代にはここに入口はありませんでした。なんだかなぁ。。
ニセ大手門の横にある解説板
では、当時の大手門はというと、東側にあったんです。
動画でも見てみましょう♪
内側からも見てみましょう♪♪
なかなか高い土塁と堀ですが、大手門入るといきなり主郭というのはいくら「人は城、人は石垣、人は堀」の最強武田軍団とはいえどもちょっと防御力に不安な点がありそうですが。。
そんな大手門の前には馬出があったようで、発掘調査により三日月堀の跡が見つかっているようです。
武田家が滅亡した後にこの堀は埋められて土塁が作られたとのことで復元されています。
この復元は知らなかった。。
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階段があることから、塀か多聞櫓的なものがあったと推測されますね。
その向こうにも高い土塁が築かれてますので、武田家が滅亡後にこの地に入った徳川家によって大手門前の防御が手薄と考えられたんでしょう。
その先にも土塁が築かれています。
さて本郭内に移動します。現在武田神社のある本郭は信玄のお父さんの信虎がこの地に本拠を移した際に築いたもので、その後城内は信玄らによって拡張されていきました。
ん?
想像図の左上に「天主」の文字が。。なんでも武田家以降のこの城には天守閣が築かれていたそうです。
超見たい
神社の方に天主台の場所を尋ねるとなんでも神社の裏側にあるため、一般には公開していないそうです。残念。。。。
この奥が天主台(のハズ)
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