岡崎城訪問記 [城-神奈川県]
今回は岡崎城という城跡を紹介します。
徳川家康ゆかりの三河岡崎城ではなく相模岡崎城です。ごめんなさい。。
少し前にこのブログで北条早雲のお話をご紹介しましたが、
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/2010-04-30
早雲が小田原城を奪取してから、三浦氏を滅ぼして東相模を制圧して全相模を平定するまで21年もかかったのですが、その理由の一つに三浦家の当主義同(道寸)が堅城のこの城でがんばっていたからなんです。どんな城跡が残っているんですかね?
岡崎城は新宿から小田原まで走っている小田急線という私鉄の伊勢原という駅から行きます。新宿からだと急行で一時間強。ちょっとした遠出になります。で、伊勢原駅から歩いて30分くらいの静かな住宅街の中の無量寺というお寺が城跡になっています。このお寺の辺りが居館跡らしいです。
お寺の入口に解説板があります。
さてと、、
どう考えてもフツーのお寺で城跡らしくないような、、ちょっとぐるっとしてみます。
お寺の裏側に行く道がなんかそれらしい道が虎口でしょうか?
この虎口を上がってお寺の裏側に出ると、なんかそれっぽい土塁が。
動画でもご覧下さい♪
土塁の上は畑になっています。。
この郭の隣にもう一つ郭があり、なかなかの高さの空堀です。
動画でも見てみましょう♪
郭から空堀の下を見ると高さが伝わりますかね?
調べたところ郭は3つあるらしいのですが、2つめから先は完全な藪と化しているのであまり奥にはいけず、道のできている郭は反対側に回ります。地元の方に何人かすれ違いましたが散歩道になってるんですかね?すると、、
外郭の空堀でしょうか?なかなかキレイな土塁が残っていますね~。
ここでいつものように岡崎城の歴史を紹介。
岡崎城は源頼朝の重臣、岡崎四郎義実が築いたのが始まりです。無量寺から300mくらい行った所に義実の墓があります。
すると今回も地元の人に話しかけられます。
地「おうよぉ、どこからきたんだい?」
ここは神奈川なんですが「龍馬伝」で勝海舟を演じている武田鉄矢ばりに江戸っ子のようなすんごいべらんべぇ口調です。
F「東京からです」
地「そうか、東京からだったらそりゃ遠くからきたなぁ」
F「いいえ、小田急線乗ったらそんなに遠くないですよ」
地「ほぅ、そうか。岡崎四郎の墓にきたのか?」
F「どちらかというとお城の跡を見に来ました」
地「城かぁ、どこが城だか全然わからねぇだろぉ」
なんでもこの方を含めた地元の有志で岡崎四郎のお墓を一ヶ月に数回掃除をしていただいているとの事です。国や県の史跡に指定された有名なところ以外の史跡は地元の方のこういった活動に支えられているんですね。感謝です。おっと、お城の歴史に戻ります。
それから時は流れて、東相模は三浦義同が治めていました。この義同は実は養子だったんですが、養父の三浦時高に実子(高教)ができてしまったんです。そりゃ、実子がかわいいですもんね。疎まれだした義同はとうとう時高を攻め滅ぼしたんです。う~ん戦国時代の幕開けですね。
小田原城を奪って東へと勢力を伸ばそうとする早雲と三浦義同は扇谷上杉と山内上杉の対立の中で直接対立します。一時は義同有利で小田原城まで攻め込まれましたが、永正9年(1512)8月に早雲は反撃し、岡崎城を8千の兵で攻め落城させます。その後義同は三浦半島の新井城で早雲の攻撃を3年間粘りましたが最後は討ち死にしました。落城後の岡崎城はどうなったかは残念ながら不明です。。
実は偶然にも小田急線の車内の中吊り広告で「小田急線沿線の歴史巡り」という企画をやっていて岡崎城も紹介されていました。しかし、これはかなりのお城マニアでないとよくわかりません。。。残念ながら宅地/農地化が進み城郭の全体像がイマイチつかみづらいです。関東でも数少ない籠城戦のあった城跡だけにもう少し調査なりなんなりしてくれればよいと思うのですが。。
平塚方面を見ます。城跡らしい高台にあります。
岡崎城の全景
地元の人に教えてもらった近くの公民館にある岡崎四郎義実の銅像
ちなみにこの城跡、クサイんです。。なんでかなぁと思い、ぐるっと城跡周辺を歩くと反対側に養豚場が。。
納得。
戦国時代ブログランキング参加中!勉強になりましたら応援クリックお願いします♪
↓
にほんブログ村
徳川家康ゆかりの三河岡崎城ではなく相模岡崎城です。ごめんなさい。。
少し前にこのブログで北条早雲のお話をご紹介しましたが、
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/2010-04-30
早雲が小田原城を奪取してから、三浦氏を滅ぼして東相模を制圧して全相模を平定するまで21年もかかったのですが、その理由の一つに三浦家の当主義同(道寸)が堅城のこの城でがんばっていたからなんです。どんな城跡が残っているんですかね?
岡崎城は新宿から小田原まで走っている小田急線という私鉄の伊勢原という駅から行きます。新宿からだと急行で一時間強。ちょっとした遠出になります。で、伊勢原駅から歩いて30分くらいの静かな住宅街の中の無量寺というお寺が城跡になっています。このお寺の辺りが居館跡らしいです。
お寺の入口に解説板があります。
さてと、、
どう考えてもフツーのお寺で城跡らしくないような、、ちょっとぐるっとしてみます。
お寺の裏側に行く道がなんかそれらしい道が虎口でしょうか?
この虎口を上がってお寺の裏側に出ると、なんかそれっぽい土塁が。
動画でもご覧下さい♪
土塁の上は畑になっています。。
この郭の隣にもう一つ郭があり、なかなかの高さの空堀です。
動画でも見てみましょう♪
郭から空堀の下を見ると高さが伝わりますかね?
調べたところ郭は3つあるらしいのですが、2つめから先は完全な藪と化しているのであまり奥にはいけず、道のできている郭は反対側に回ります。地元の方に何人かすれ違いましたが散歩道になってるんですかね?すると、、
外郭の空堀でしょうか?なかなかキレイな土塁が残っていますね~。
ここでいつものように岡崎城の歴史を紹介。
岡崎城は源頼朝の重臣、岡崎四郎義実が築いたのが始まりです。無量寺から300mくらい行った所に義実の墓があります。
すると今回も地元の人に話しかけられます。
地「おうよぉ、どこからきたんだい?」
ここは神奈川なんですが「龍馬伝」で勝海舟を演じている武田鉄矢ばりに江戸っ子のようなすんごいべらんべぇ口調です。
F「東京からです」
地「そうか、東京からだったらそりゃ遠くからきたなぁ」
F「いいえ、小田急線乗ったらそんなに遠くないですよ」
地「ほぅ、そうか。岡崎四郎の墓にきたのか?」
F「どちらかというとお城の跡を見に来ました」
地「城かぁ、どこが城だか全然わからねぇだろぉ」
なんでもこの方を含めた地元の有志で岡崎四郎のお墓を一ヶ月に数回掃除をしていただいているとの事です。国や県の史跡に指定された有名なところ以外の史跡は地元の方のこういった活動に支えられているんですね。感謝です。おっと、お城の歴史に戻ります。
それから時は流れて、東相模は三浦義同が治めていました。この義同は実は養子だったんですが、養父の三浦時高に実子(高教)ができてしまったんです。そりゃ、実子がかわいいですもんね。疎まれだした義同はとうとう時高を攻め滅ぼしたんです。う~ん戦国時代の幕開けですね。
小田原城を奪って東へと勢力を伸ばそうとする早雲と三浦義同は扇谷上杉と山内上杉の対立の中で直接対立します。一時は義同有利で小田原城まで攻め込まれましたが、永正9年(1512)8月に早雲は反撃し、岡崎城を8千の兵で攻め落城させます。その後義同は三浦半島の新井城で早雲の攻撃を3年間粘りましたが最後は討ち死にしました。落城後の岡崎城はどうなったかは残念ながら不明です。。
実は偶然にも小田急線の車内の中吊り広告で「小田急線沿線の歴史巡り」という企画をやっていて岡崎城も紹介されていました。しかし、これはかなりのお城マニアでないとよくわかりません。。。残念ながら宅地/農地化が進み城郭の全体像がイマイチつかみづらいです。関東でも数少ない籠城戦のあった城跡だけにもう少し調査なりなんなりしてくれればよいと思うのですが。。
平塚方面を見ます。城跡らしい高台にあります。
岡崎城の全景
地元の人に教えてもらった近くの公民館にある岡崎四郎義実の銅像
ちなみにこの城跡、クサイんです。。なんでかなぁと思い、ぐるっと城跡周辺を歩くと反対側に養豚場が。。
納得。
戦国時代ブログランキング参加中!勉強になりましたら応援クリックお願いします♪
↓
にほんブログ村
小机城訪問記 [城-神奈川県]
今日は神奈川県にある小机城の訪問記です!
このお城は横浜線の小机駅から歩いて10分くらいの場所にあります。で、お城の見取り図はこんな感じ。
東京、神奈川にいらっしゃる方は御存知の「第3京浜」という高速道路があるのですが、小机城のど真ん中を突き抜けて作られています、、、ひ、ひどい。。
このお城についてはあまり詳しい事がわかってないのですが、大きく本丸(と考えられている所)と二の丸(と考えられている所)の二箇所があります。それでは本丸の入り口を動画で見てみましょう。
なかなか深い空堀ですが、まだまだ驚いてはいけませんよー。
次は本丸内の動画です。
想像よりかなり狭いです。ちなみに本丸にはネットが張られており、小学生の少年野球の練習場になっているようです。本丸で野球、、、ある意味贅沢ですね。。
本丸横に小机城の説明看板があります。
ここで小机城の紹介~。
小机城も今までこのブログでも紹介した関東のお城と同様、いつ頃に築城されたかわかっていないんですが上杉氏によって築城されたらしいです。小机城が有名になったのは太田道灌に攻められた豊島泰経が石神井城、平塚城で負けて小机城に籠城し、二ヵ月後に落城しました。歌人としても有名な道灌がこの小机城を攻める際に詠んだ歌が
小机はまづ手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる
という歌で小机城を囲んでいる兵士の士気を高めるために詠んだとされています。
さて、落城後の小机城はほっとかれていましたが、その後北条氏の支配の時代になると笠原信為を城代として復興され、小机衆が組織されました。ちなみに歴代の城主には小机衆を支配していた北条早雲の三男、北条幻庵の養子となっていた上杉の人質に出される前の北条三郎(上杉景虎)もいます。その後豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城となりました。秀吉に攻められた際には全くこの城では攻防が行われませんでした。まぁ、この城にこもってもたいした戦いはできなかったでしょう。。そのくらいの大きさです。
次は二の丸です。まずは動画から。最後の方にこんもりと見えるのは櫓台跡です。
櫓台にあるのですが、柱の跡ですかねぇ?
それでは小机城最大の見せ場、本丸と二の丸の間の深い空堀です。
本邦初(多分)!360°小机城の空堀の動画です!!
竹が鬱蒼と生えていて暗いですがまだ真昼です。小机城は現在「小机城址市民の森」となっており、横浜市が森の緑を守っています。昼間でもちょっと怖い感じがするので、夜は絶対に真っ暗で怖いと思います。
最後に第三京浜の反対側、富士浅間を訪問です。
なんか遺構があります。こちら側は今でも見晴らしがいいので、見張り台が何かだったのでしょうか?
本丸方向を見ます。向こう側の巨大な建物は、横浜Fマリノスのホームグラウンドの日産スタジアムです。
まぁ、関東によくある石垣なし水堀なし建物なし、土塁空掘のみのお城です。二の丸の空堀の深さを体感したい人は都内からもそんなに遠くありませんので是非。
↓戦国時代ブログランキング参加中!1位を狙っているので今日の記事が面白ければクリックを
にほんブログ村
このお城は横浜線の小机駅から歩いて10分くらいの場所にあります。で、お城の見取り図はこんな感じ。
東京、神奈川にいらっしゃる方は御存知の「第3京浜」という高速道路があるのですが、小机城のど真ん中を突き抜けて作られています、、、ひ、ひどい。。
このお城についてはあまり詳しい事がわかってないのですが、大きく本丸(と考えられている所)と二の丸(と考えられている所)の二箇所があります。それでは本丸の入り口を動画で見てみましょう。
なかなか深い空堀ですが、まだまだ驚いてはいけませんよー。
次は本丸内の動画です。
想像よりかなり狭いです。ちなみに本丸にはネットが張られており、小学生の少年野球の練習場になっているようです。本丸で野球、、、ある意味贅沢ですね。。
本丸横に小机城の説明看板があります。
ここで小机城の紹介~。
小机城も今までこのブログでも紹介した関東のお城と同様、いつ頃に築城されたかわかっていないんですが上杉氏によって築城されたらしいです。小机城が有名になったのは太田道灌に攻められた豊島泰経が石神井城、平塚城で負けて小机城に籠城し、二ヵ月後に落城しました。歌人としても有名な道灌がこの小机城を攻める際に詠んだ歌が
小机はまづ手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる
という歌で小机城を囲んでいる兵士の士気を高めるために詠んだとされています。
さて、落城後の小机城はほっとかれていましたが、その後北条氏の支配の時代になると笠原信為を城代として復興され、小机衆が組織されました。ちなみに歴代の城主には小机衆を支配していた北条早雲の三男、北条幻庵の養子となっていた上杉の人質に出される前の北条三郎(上杉景虎)もいます。その後豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城となりました。秀吉に攻められた際には全くこの城では攻防が行われませんでした。まぁ、この城にこもってもたいした戦いはできなかったでしょう。。そのくらいの大きさです。
次は二の丸です。まずは動画から。最後の方にこんもりと見えるのは櫓台跡です。
櫓台にあるのですが、柱の跡ですかねぇ?
それでは小机城最大の見せ場、本丸と二の丸の間の深い空堀です。
本邦初(多分)!360°小机城の空堀の動画です!!
竹が鬱蒼と生えていて暗いですがまだ真昼です。小机城は現在「小机城址市民の森」となっており、横浜市が森の緑を守っています。昼間でもちょっと怖い感じがするので、夜は絶対に真っ暗で怖いと思います。
最後に第三京浜の反対側、富士浅間を訪問です。
なんか遺構があります。こちら側は今でも見晴らしがいいので、見張り台が何かだったのでしょうか?
本丸方向を見ます。向こう側の巨大な建物は、横浜Fマリノスのホームグラウンドの日産スタジアムです。
まぁ、関東によくある石垣なし水堀なし建物なし、土塁空掘のみのお城です。二の丸の空堀の深さを体感したい人は都内からもそんなに遠くありませんので是非。
↓戦国時代ブログランキング参加中!1位を狙っているので今日の記事が面白ければクリックを
にほんブログ村
茅ヶ崎城訪問記 [城-神奈川県]
実は今年(2009年)に入ってからお城の紹介をしていなかったんですよ。
と、いうわけで今回は神奈川県にある茅ヶ崎城をご紹介します。
茅ヶ崎といえば、、、
「砂まじぃりの茅ヶ崎ぃ~人の波も消ぃぃえてェェ~♪」
そうです、茅ヶ崎といえば、海です!湘南です!!サザンです!!!
が、残念ながらここは茅ヶ崎という地名は同じなのですが、海からも遠く、サザンの曲が似合わない横浜の山奥(失礼!)にあります。
このお城は横浜市営地下鉄の「センター南駅から」歩いてすぐの住宅街にあります。もともと雑木林で城跡として存在していたのですが、横浜市が公園として整備を進め、昨年(2008年)6月に茅ヶ崎城址公園としてリニューアルオープン(?)した新しいお城(表現が変かな?)なのです。
↓遠くに見える観覧車に見覚えのある方がいらっしゃると思います。
さて、茅ヶ崎城。お城全体の見取り図こんな感じです。
非常にこじんまりとしたお城です。このお城は多田行綱が治安年間(1021)頃に築城したという言い伝えがありますが、正確な事はわかっていません。小机城の近くにあるため、小机城の支城として後北条氏によって改修されたとされています。城主も正確には不明で、このお城のあたりは小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと考えられています。そして後北条氏滅亡後、廃城になったとされています。関東はこういう謎の城が多いんですよね。。
それでは動画いってみましょう!まずは虎口から西郭→中郭です。
中郭は結構高い土塁で囲まれています。では中郭に入ってみましょう。
この中郭には倉庫があったとされています。
茅ヶ崎城は公園化したことにより解説板も設置されていて、勉強になります~
都心からもそんなに遠くないところなのですが、お城の遺構がほぼ残っているところは珍しいと思います。
空堀や北郭は舗装されており、犬を散歩させるおじいさんやサッカーをしている子供達がいてまさに市民の憩いの場となっています。お城の公園化は賛否両論あるかと思いますが、宅地化されて何もなくなってしまうよりは歴史が勉強できる公園として残してもらいたいと思います。みなさんはいかがですか?
↓戦国時代ブログランキング参加中!
にほんブログ村
と、いうわけで今回は神奈川県にある茅ヶ崎城をご紹介します。
茅ヶ崎といえば、、、
「砂まじぃりの茅ヶ崎ぃ~人の波も消ぃぃえてェェ~♪」
そうです、茅ヶ崎といえば、海です!湘南です!!サザンです!!!
が、残念ながらここは茅ヶ崎という地名は同じなのですが、海からも遠く、サザンの曲が似合わない横浜の山奥(失礼!)にあります。
このお城は横浜市営地下鉄の「センター南駅から」歩いてすぐの住宅街にあります。もともと雑木林で城跡として存在していたのですが、横浜市が公園として整備を進め、昨年(2008年)6月に茅ヶ崎城址公園としてリニューアルオープン(?)した新しいお城(表現が変かな?)なのです。
↓遠くに見える観覧車に見覚えのある方がいらっしゃると思います。
さて、茅ヶ崎城。お城全体の見取り図こんな感じです。
非常にこじんまりとしたお城です。このお城は多田行綱が治安年間(1021)頃に築城したという言い伝えがありますが、正確な事はわかっていません。小机城の近くにあるため、小机城の支城として後北条氏によって改修されたとされています。城主も正確には不明で、このお城のあたりは小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと考えられています。そして後北条氏滅亡後、廃城になったとされています。関東はこういう謎の城が多いんですよね。。
それでは動画いってみましょう!まずは虎口から西郭→中郭です。
中郭は結構高い土塁で囲まれています。では中郭に入ってみましょう。
この中郭には倉庫があったとされています。
茅ヶ崎城は公園化したことにより解説板も設置されていて、勉強になります~
都心からもそんなに遠くないところなのですが、お城の遺構がほぼ残っているところは珍しいと思います。
空堀や北郭は舗装されており、犬を散歩させるおじいさんやサッカーをしている子供達がいてまさに市民の憩いの場となっています。お城の公園化は賛否両論あるかと思いますが、宅地化されて何もなくなってしまうよりは歴史が勉強できる公園として残してもらいたいと思います。みなさんはいかがですか?
↓戦国時代ブログランキング参加中!
にほんブログ村